「350年は誇大宣伝?(6)」(2024年06月10日)

しかしオランダ本国はインドネシアの全域を自分の植民地と見なしていたのだ。1814
年、本国政府内に植民地省が設けられ、オランダ東インド政庁にとっての本国におけるパ
ートナー役を務める体制が築かれた。決してオランダ東インド総督に指令を与える機関で
はなく、反対に東インド政庁を補佐するのがその役割だった。なぜなら、東インド総督は
オランダ国王に責任を負う位置付けになっていたのであって、王国政府の命令を執行する
出先機関ではなかったのだ。

それはつまり、ヌサンタラにある諸王国が独立王国として存在している形式が執られてい
るとはいえ、オランダ東インド政庁はヌサンタラの全域を実質的な植民地と見なしていた
ことを意味していると言えるように思われる。

それを捉えて、オランダがインドネシアの植民地支配を開始したのは第42代総督のファ
ン デル カペレンがバタヴィアに赴任してイギリスから統治行政を引き継いだ1816年
だという見解もある。それだと看板の350年は一気に三分の一に縮小してしまう。


しかしオランダ東インド政庁が発足したとき、ヌサンタラの諸王国は依然として形式的に
独立王国であり、植民地と呼べるエリアはVOCが直轄領にしていた地域だけだった。

VOC時代が終わり、フランス時代、イギリス時代という急激な転変の嵐が通り過ぎたあ
とオランダ東インド政庁が発足した1816年から1950年までの134年間にインド
ネシアの全土が名実ともにオランダの植民地になっただろうか?

オランダ人自身の間で「オランダ東インド」という言葉は地理的政治的呼称として使われ
ると同時に、それとは異なる内容の国際法上の実体としても使われた。前者がオランダ王
国の領有している地球上の一地方という概念で理解されたのと異なり、国際法における独
立国・服属国・領有国の違いをオランダ東インド政庁とプリブミ王国が結んだ協定に従っ
て区分していけば、地理的政治的な「オランダ東インド」というひとつのユニットはバラ
バラに飛散してしまうはずだ。


確かに、オランダ王国は東インド政庁を通して全ヌサンタラをオランダの植民地にするた
めに動き出したのである。形式的には独立王国のままであっても何ら問題はない。オラン
ダ国王に服属することを誓約し、オランダ王国の宗主権を認めてその属国になる契約を結
べばよい。オランダ王国はそのプリブミ王国を属国と認め、その属国をオランダの領土に
し、プリブミ王国領民はオランダ王国の国民になるのだ。

オランダのその誘い掛けに乗ろうとしないプリブミ王国は少なくなかった。であるなら、
戦争してそのプリブミ王国を滅ぼし、オランダの行政統治をその王国に敷くまでのことだ。
この動きの中にバリ戦争があり、そしてアチェ戦争があった。

1846年東インド政庁はブレレン王国への軍事進攻を行った。ブレレン王は降伏したふ
りをし、パティが抵抗戦を指揮した。ブレレンのパティはジュンブラナ王国とクルンクン
王国を誘って連合軍を作り抵抗したがオランダに敗れた。1848年、植民地軍は再度ブ
レレンに進攻し、1849年にブレレン王国はオランダに降伏して服属国になった。バリ
島北部を制圧したオランダ東インド植民地軍は続いて南部の制圧にかかった。

1849年、植民地軍はクルンクンのパダンバイに進攻してそこを制圧すると、軍はさら
にクルンクンのゴアラワ陣地目指して進軍した。攻撃側が優位に立ち、クルンクン兵は押
されてクサンバの陣地に後退した。植民地軍はさらに敵を押しまくり、クサンバの陣地も
陥落した。既に夜になったため、植民地軍はクサンバで夜営した。明日はクルンクンの王
都に総攻撃をかける。

ところがクルンクン兵が夜中3時ごろに夜襲をかけてきた。植民地軍司令官ミヒュールス
少将は重傷を負って翌日死亡。進攻軍も戦意を失って王都攻撃どころでなくなり、オラン
ダ側は撤退した。[ 続く ]