「世界を揺さぶったスパイス(33)」(2024年06月07日)

フリに包まれたビジを果肉から外し、更にフリを取り除いたものを6〜8週間天日乾燥さ
せる。するとタネの殻の中にある中身が縮むから、振るとカラカラと音がする。殻を割っ
て中身を取り出し、たいてい粉末にする。それが商店で普通に見られる粉末のナツメグス
パイスである。

このスパイスはパン・ケーキ・プリン・ソース・野菜料理・飲み物などによく合う。わた
しが作るコピラチッkopi racikには必ずナツメグの粉が入る。また、パラの実には揮発油
が含まれており、メースはたいてい揮発油の素材に使われているが、料理のスパイスとし
て使う地方もある。パラの揮発油は香水や石ケンによく使われている。また皮も蚊よけ薬
に使われていて、すべてが何らかの効能を有している。


バンダ群島ではパラの実の収穫期が一年に4回あり、そのうちの大収穫と中収穫が年に一
度、小収穫が年に二度ある。小収穫のときは1本の樹から2キロくらいしか収穫があがら
ないのに比べて、大収穫では5キロもの収穫が得られる。

現代バンダのパラ農民はその4回の収穫で一年の生計のベースを構築する。大収穫や中収
穫が終わって大金が手に入ると、ひとびとは連絡船でアンボンへ買い物に出かけて耐久消
費財や書物などを買って帰る。あるいは子供に高等教育を与えるためにアンボンに下宿さ
せたりもする。アンボンからバンダネイラに向かう連絡船に新品の自転車や幼児用の三輪
車などが積まれている風景は普通のものだそうだ。


インドネシアが独立するまで、バンダ群島のパラ農園はプルクニエルたちが所有していた。
かれら異国人農園主は元々オランダ系が多かったものの、他のヨーロッパ人やアラブ人な
ども混じっており、また中華系の混血者などもやってきたために人種混交は絶え間なく起
こった。長い歴史の中でプルクニエル層自体が互いに混交し合ったから、プルクニエルを
単純にオランダ系と見なすと正確さを失うだろう。

ただしどの一族もたいてい祖先の父方の姓を名乗り続けたために、姓だけを見てXX系だ
と言い、それに従って人種や文化をそのような色で見てしまう先入観がわれわれを誤った
観念に導く結果をもたらすのは、この人種という概念が保ち続けている落とし穴かもしれ
ない。

インドネシアが独立したあと、植民地支配者が所有していたパラ農園はインドネシア人が
取り戻した。バンダ地方にはPT Perkebunan Pala Bandaという会社が作られてすべての農
園を管理下に置いた。しかしたいした教育と経験を持たないひとびとが行なうマネージメ
ントはうまく行かず、結局会社は倒産したのである。バンダ地方行政府は会社の資産にし
てあったパラ農園の一部を地元民に譲渡して、生産と収穫活動を行わせた。現在バンダで
活動しているパラ農民の多くはそんな形でスタートしたひとびとだ。

もしもインドネシア独立後もインドネシアに残ったプルクニエルの子孫たちがそのときバ
ンダにいたなら、インドネシア人のひとりとしてパラ農園事業を再開する機会がかれらに
訪れることになったわけだが、また異なる身の上話を2013年のコンパス紙は物語って
いる。


VOCがバンダに設けた68ヵ所のナツメグ農園を買った人々の中にVOC海軍将官ピー
テル・ファン デン ブルッケがいた。ピーテルは1624年にアイ島のナツメグ農園の地
主になった。さらにこの一家はロントイル島のナツメグ農園2ヵ所も手に入れ、代々が大
型農園主としてバンダのナツメグ生産における有力者のひとりになっていた。

その大御先祖から数えて11代目のへ―ル・ファン デン ブルッケが当主のとき、日本軍
が進攻してきた。日本軍はバンダのプルクニエルとその家族を全員捕虜にしてマカッサル
の敵国人抑留者収容キャンプに入れた。

戦争が終わってバンダのプルクニエルが自宅に戻ったとき、かれらの所有地はすべてイン
ドネシア政府が没収していた。自宅も農園も全部だ。ファン デン ブルッケ家はバンダを
去ってジャワに移った。[ 続く ]