「世界を揺さぶったスパイス(34)」(2024年06月10日)

12代目の当主になったベニー・ファン デン ブルッケはインドネシアを去ってオランダ
へ移住する考えを持たなかった。何世代にもわたって土着したこの家系はバンダを自分た
ちの故郷と見ていたのだ。ナツメグ農園を国に取り上げられたベニーは、インドネシアで
生きていくためになにがしかの損害賠償を1976年にインドネシア政府に要求した。そ
して長い長い闘争の日々を送った果てに、政府はロントイル島の12.5Haのナツメグ農
園をベニーに譲渡したのである。

1988年、老齢のベニーが死の床に伏せっているとき、ロントイル島のナツメグ農園事
業を四人の子供の中のだれが相続するかを決めるために家族会議が開かれた。「我こそが」
と言う者はひとりもいなかった。悲しげな父の様子にいたたまれなくなった二人目の子供
であるポンキ・ファン デン ブルッケが自分の人生の賭けに出た。父親を尊敬し、愛して
いたかれは悲しげな父親の姿を見ていられなかったのだ。マディウンで生まれ、ジャワ島
しか知らず、ジャカルタで結婚し、その大都会で生きて行こうとしていたポンキが先祖代
々の家運を担うことになった。かれはナツメグ栽培とそのビジネスを一から勉強しなけれ
ばならなかった。

「わが家の先祖はナツメグに生きてきた。現在のこの農園は先祖たちの血のにじむような
努力の賜物として存在している。この遺産を大切に守り育ててくれ。子々孫々までこの遺
産を伝えてくれ。」ポンキは父親のその遺言を片時も忘れない。


ポンキが家族を連れてロントイル島に移り住んだのは1990年だった。そのころはもう、
バンダでナツメグに関わっているプルクニエルの子孫はひとりも残っていなかった。プル
クニエルの家系には、スパイスとしての正統なナツメグの生産方法が先祖代々伝えられて
きている。昔から行われてきたその方法が、プルクニエルがいなくなったことで守られな
くなっていた。

樹を植えるとき、樹と樹の間に十分な間隔を開けるナツメグ農民がたいへん少なくなって
いる。使う土地が狭いために、かれらが生産量を最大限にしたいと欲張ることが植樹の鉄
則を忘れさせているのだ。あるいは種を乾燥させるとき、完璧な乾燥状態になる前にその
プロセスを切り上げて売ってしまう。

VOC時代にはナツメグの種の乾燥作業に、煙でいぶす手順が含まれていた。小屋を作っ
て中を2層に分け、中ほどに竹を敷き詰めてその上に種を置き、下で薪を燃やして熱い煙
を種にからませるのである。それが二週間続けられて種は完璧な乾燥状態になる。今のバ
ンダでそんな方法を行っているナツメグ農民はいない。みんな4日間くらい天日干しを行
ない、それを仲買人に売っている。不完全な乾燥状態はカビが発生しやすく、おまけにそ
のカビが有害物質を作るために市場での商品価値が低下する。

ポンキは良い品質の品物を作るために良い仕事をすることを自分に課した。何百年も続い
てきたプルクニエルのスタンダードを自分が崩すことはできないと自戒しているようだ。
そして他のナツメグ農民たちにも惜しまずに知恵を貸し、指導や助言を与えている。農園
主であるかれは当然、自分の農園のために良い苗木を作るのだが、行政側がその品質の良
さを知ってマルクとパプアに使うナツメグの苗木をポンキに発注するようになった。かれ
はナツメグの果肉から揮発油を作ることも忘れない。

ポンキは自分の息子にこのナツメグ農園の跡を継がせるための教育も怠りない。バンダに
残る唯一のプルクニエル農園はこの先もきっと代を重ねて生き続けることだろう。ポンキ
は自分の老後を孫と一緒に遊んで過ごしたいと語っている。海に面した高台に建てられて
いる家の裏庭から、大海原は一望のもとだ。そこはかれの父親も祖父も愛した場所だった
のである。[ 続く ]