「350年は誇大宣伝?(7)」(2024年06月11日)

クルンクン王国はその戦争で勝ち残ったのだが、1908年のププタン戦争に敗れて王国
は崩壊した。クルンクン王宮は領土領民に対する主権を取り上げられ、オランダ東インド
政庁の統治下にある自治領としての道を歩み始めた。

バドゥン王国は1906年のププタン戦争でオランダに敗れて滅んだ。カランガスムは1
894年にオランダに降伏してオランダ東インド政庁の行政機構の中に組み込まれた。
1906年の時点でオランダ東インド政庁はバリ島全土とロンボッ島の統治形態を次のよ
うに区分している。
‐直轄領 ブレレン、ジュンブラナ、ロンボッ
‐自治領 バドゥン、タバナン、クルンクン、バンリ
‐政庁代表部領 ギアニャル、カランガスム
バリ島にあったすべての王国は1938年からクルンクンのような自治領という行政ステ
ータスにそろえられたようだ。


スマトラ島南部リアウ地方のSiak王国は1858年にオランダ東インド政庁と協定を結ん
だ。シアッ王国はオランダ王国に服属して属国になったのである。シアッのスルタンは東
スマトラ地方海岸部を自分の勢力下にあるとしてその約定の中に盛り込んだ。

東スマトラ地方の一部を領有していたデリのスルタンは、シアッ王国への服属から解放さ
れたことになる。デリのスルタン?にとってはこれまで自分の頭上を覆っていた屋根が入れ
替わったわけだが、1861年にオランダ東インド政庁はデリを地場の独立王国であると
認めて屋根すら取り外してしまった。それは後にメダンという大都市を生んだこの東スマ
トラ地方における植民地経営のためにオランダが打った絶妙のひと駒だった。小領主が競
い合っている東スマトラ地方を平定して経済性の高い農園事業をその地方に展開させるこ
とが東インド政庁の狙いだったのである。

東スマトラで競い合う諸王国をオランダ植民地軍が平定するとき、デリスルタン国がその
看板にされた。独立国という言葉と実態が大違いであることを、デリのスルタンが一番よ
く知っていたのではないだろうか。デリの王家は今日まで続いている。


シアッ王国はアチェの支配下にあった。オランダとイギリスは協定を結んでいた。オラン
ダはスマトラ島、イギリスはマラヤ半島という棲み分けを確実にするためにアチェを緩衝
地帯とし、アチェを独立国として存在させておく。その趣旨を正しく理解したなら、オラ
ンダのシアッへの働きかけは協定違反に該当するだろう。オランダはそもそもその協定を
不当なものと思っていたようだ。スマトラ島はオランダのものと双方が認めているのに、
イギリスはオランダがアチェを呑み込むことを邪魔しているのだから。

1873年にオランダ東インド政庁は、それまでまったく影響力を行使できていなかった
アチェダルッサラムスルタン国に宣戦を布告し、東インド植民地軍がアチェに進攻したも
のの撃退された。

1874年に第二次進攻が行われて、1877年にオランダ側は王宮を占領した。スルタ
ンは王宮を捨てて野に下り、戦争を続行した。一方のオランダ側は王宮を拠点にして占領
地の統治行政を開始し、地域行政の最高位者としてアチェ民事軍事都督を置いた。

1896年に始まった東インド植民地軍の第四次進攻でアチェのスルタンが1903年に
オランダ側に捕まり、王国制が廃止された。この後もアチェ民衆の抵抗戦は長期にわたっ
て継続し、オランダ側はアチェのレジスタンス闘争を鎮圧しきれないまま1942年3月
12日の日本軍上陸を迎えることになった。日本軍のアチェ攻略戦の前に日本軍特務機関
員とアチェの闘争家たちの間で接触が行われ、アチェ人が日本軍の進攻を手引きしたとい
う話が語られている。[ 続く ]