「350年は誇大宣伝?(8)」(2024年06月12日) その辺りの史的経緯を織り込んで行くなら、バリ島がオランダに完全征服されたのは19 08年前後になり、オランダの植民地になったのは34年間という結論になる。あるいは この問題に関してアチェ戦争を参照する人が多く、アチェで王制が消滅した1903年を オランダ東インド植民地の完全達成としている意見が強くて、その場合は39年間の植民 地支配が全インドネシアを覆ったという計算結果が主張されている。350年間というの は史実の十倍ほどもある誇大妄想だというオランダ人の反論に同調するインドネシア人歴 史家も多い。 既存のプリブミ王国を独立国家の形式のまま自国の経済繁栄に貢献させるように操縦した オランダ人の手法がどうして成功したのかという命題についての分析は昔からたくさん行 われてきた。プリブミ王国は自国の領土領民を自分のやり方で統治しながら、自分の金庫 に入るべき富の多くをオランダ人に搾り取られていたのだ。乳牛が歓んで最大限のミルク を出すようにさせれば、オランダ人のミルク缶ははちきれんばかりに満たされるのである。 乳牛というものがどのようなものであるのかについて観念的にしか知らない者にはとても 考えの及ばない戦略と戦術がそこに駆使されていたにちがいあるまい。 ヨーロッパ人の到来が始まる前、ヌサンタラではマジャパヒッ王国のガジャマダが築いた パックスマジャパヒッが1389年に崩壊し、巨大な覇権の下では身の程をわきまえてい た地方領主たちが個々に地場の覇権を争奪する混乱時代に入って行った。その諸国入り乱 れて地方ごとの覇権を競い合う一種の戦国時代がほぼ2百年にわたって継続したことがヨ ーロッパ人のヌサンタラ侵略を容易にしたという歴史観が語られている。 オランダ人が使ったヌサンタラ支配の手法の中に、プリブミの支配者を互いに争わせて個 々の力が衰えるようにし、その争いの一方に加担して地方覇権を握らせ、覇権をつかんだ 者をその地方の最高権力者に仕立て上げてその威勢を保護しながら、裏でその権力者を自 分の言うがままに動かすという形態がしばしば観察された。 オランダ人が汚い手を使ってプリブミの地方支配者を互いに争うよう仕向けたというイン ドネシア語論調が少なくないのだが、戦国時代の様相を眺めるかぎり、ヨーロッパ人が来 なくてもプリブミ地方領主間あるいは領主一族間の争いは果てしなく起こっていただろう と思われるのである。オランダ人はそこに存在していた状況を利用しただけにすぎないの ではないか。敵を分裂させることは戦いに勝つための重要な戦略だ。自分の支配下に落ち た者は可能な限り分割して相互に反目させ、その全体をひとつにまとめて統治することも 統治支配のための重要な手法ではないだろうか。インドネシア人歴史学者の間には、ヨー ロッパ人侵略者がプリブミを分裂させたのでなく、プリブミ自身がその前にすでに分裂し ていたのだ、と語っている声もある。 スパイスを求めてやってきたヨーロッパ人侵略者たちは、マルク地方にまず集まって来た。 そのころ、マルク地方では社会集団間の争い、王国内支配階層における権力争い、地域内 での王国間の争いという複合的な争いが長期にわたってあちこちで継続していた。 ナツメグの産地として世界に名を馳せていたバンダ群島では、ヨーロッパ人が姿を見せる ずっと前から村同士の戦争が行われていた。1599年にはラッバテッカ村とネイラ村の 間で大規模な戦いが展開されている。一方の村の住民が他方の村の領内に生えているナツ メグを切り倒したのが争いの発端だった。それは商売敵の間で起こった経済戦争だったの かもしれない。王という概念の支配者がいないバンダの村々で起こるムラ戦争は、戦争と いう概念の当てはまらない一種の喧嘩出入りでしかないだろう。そして村人が死んで人口 が減り、家や蔵が焼かれて生活が貧窮して行った。 1617年にJPクーンがバンダ群島を軍事制圧するために攻めてきたとき、バンダのあ らゆる村々の住民が武器を手にして抵抗戦の最前線に立ったというのに、ラッバテッカ村 は静まり返っていた。村の人口が減ってしまい、戦える状態でなくなっていたそうだ。 [ 続く ]