「350年は誇大宣伝?(9)」(2024年06月13日)

ヨーロッパ人初の来航者だったポルトガル人のマルク地方への出現に際しても、その事件
はテルナートとティドーレ間の争いに最初から彩られていた。ルンピウスの書いたアンボ
ン史によれば、1512年に難破して地元民に救助され、ヒトゥ王国の賓客になったフラ
ンシスコ・セハウンFrancisco Serraoと部下の一行はテルナーテ王宮から派遣されてきた
使者の来訪に驚かされた。やってきたヨーロッパ人の噂を耳にしたテルナーテ国王がセハ
ウン一行を招いたのだ。テルナーテに味方して仇敵ティドーレとの戦争に助言と支援を与
えてほしい。契約書の中には、クローブ取引についての条項も記されていた。セハウンは
その場で使節が持って来た契約書にサインしたそうだ。

一足遅れてやってきたティドーレの使節はセハウンをさらに驚かせたにちがいあるまい。
そんなことになるとは露知らなかったセハウンは、はやまって契約書にサインしたことを
悔やんだはずだ。自分の値をつりあげる機会を捨ててしまったのだから。

その当時、テルナーテのスルタンは頑強なムスリムであり、一方のティドーレのスルタン
は他の宗教に寛容なムスリムだった。カトリック布教をアジアへの使命のひとつとして奉
じてきたポルトガル人にとっては、それもひとつの機会損失になったようだ。


マルク地方の中で最強を誇る二大勢力になっていたテルナーテとティドーレの覇権争いは、
域内の島々に影響を及ぼした。島々の首長はそのどちらかに服属して税や貢納を差し出し
ていた。現場レベルで、自分の村はテルナーテ側、隣の村はティドーレ側というようなこ
とにでもなれば、喧嘩の種は尽きなかったにちがいあるまい。

バンダ群島でネイラ島はテルナーテと関係を持ち、ロントル島はティドーレに属していて、
その二島の間で住民間の紛争が起こるのは当たり前の状況になっていた。クーンのバンダ
島軍事征服のときでも、群島内の全住民が一致団結して抵抗したわけではなかったような
ことが書かれている。

王宮内でも地位と権力の争奪はありふれたできごとだった。テルナーテの王宮では152
8年に重臣の中の実力者がスルタンを排斥して自分が王位に着こうとした。この人物は普
段からポルトガルのカピトゥンと近しい間柄だった。

この実力者はポルトガル人と組んでクーデターを起こし、王位に就いてまだ一年しか経っ
ていない十代のスルタンを追放して自分がスルタンの座に着いた。ところがテルナーテの
民衆がそのクーデターを支持しなかった。政権簒奪者と領民の間に緊張が高まり、ポルト
ガル人は政権簒奪者に味方することをやめた。反対に領民の側に付いて王宮を攻撃し、政
権簒奪者は領民に殺された。それ以来、ポルトガル人はテルナーテの王位継承に毎回口を
さしはさむようになった。


王宮が領地領民を異民族侵略者に売り渡し、自分は安穏な暮らしにしがみついて民衆を侵
略者への生贄にしてしまったという非難が現代インドネシア人の論説にしばしば出現する。
その実例のひとつが、1650年にテルナーテのスルタン マンダルシャがアンボンのV
OCマルク行政長官に宛てた手紙だ。スルタンは手紙の中で、セラム島のカイボボ、エル
パプティ、アマハイ、マカリリをVOCに割譲する用意があると述べている。

あるいはスルタンが侵略者にすり寄って自分の領民に鞭を振るうような姿を想像させる手
紙もある。1808年にバンテンのスルタン アブナスハル・ムハンマッ・イスハッ・ザ
イナルムタキンがダンデルス総督と東インド評議会に宛てた手紙には、ランプンでのコシ
ョウの栽培状況とその売値および利益の分配についての説明と、VOCの取り分の品質保
証についての一札が記されている。悪品質のコショウをVOCに納めたり、約束した内容
に違背が起これば、住民は重罰に処せられるという内容が3枚の紙にびっしりと書かれて
いるのだ。
「もしも良くないコショウが混じっていたり、台帳に記された量に満たないようなことが
起これば、閣下の子であるわたしは調査を命じ・・・。そしてその間違いが監督人や農園
作業者の責任であった場合、かれらは処罰されなければならない。・・・」
[ 続く ]