「言語の論理と意味の伝達(1)」(2024年06月19日)

ライター: 言語オブザーバー、タングラン在住、サムスディン・ブルリアン
ソース: 2004年6月19日付けコンパス紙 "Kebersamaan dan TV" 

Terima kasih atas kebersamaan anda.
テレビ番組の司会者がよく使う、自分の番組の視聴者に向けた別れの言葉はそんなフレー
ズになっている。司会者をMCなどと呼ぶのはやめて、シンプルにPA(Pembawa Acara)
と呼びたいものである。

しかしながら、その言葉が意図している内容は明らかにTerima kasih atas kebersamaan 
kita.なのだ。Kebersamaanという言葉は同じ時に同じ場所にいる二者が体験する状態を指
している。ひとりでbersama-samaができるandaやdiaやsayaはいない。kebersamaanができ
るのはkita, kalian, merekaだけなのだ。

これは、単にandaという言葉の使い方がおかしいというだけの問題ではない。andaをkita
に変えればもっとよくなるとはいえ、問題がそれで完全に解決されるものでもない。なぜ
ならそのフレーズはkitaに向けられたものでなくてandaに向けられているからだ。司会者
は視聴者と自分自身に感謝を述べているのではなく、視聴者にだけ感謝を述べているので
ある。だからandaという言葉は、本当はterima kasihにつながっているのだ。

kebersamaan kita dimungkinkan oleh kesediaan anda menonton acara ini, karena itu  
saya berterima kasih kepada anda.
という意味内容を司会者は述べたいのだ。その意図を正確で明瞭に表す文にするなら、こ
んなものになる。
Terima kasih kepada anda atas kebersamaan kita.
ただしこの文はくどくどしい印象を与える。多分、一秒がたいへん高額なテレビ界では不
適切と見なされたのだろう。

このケースにおいて善くて正しいインドネシア語の使用方法における誤りと逸脱が起こっ
たのは、使用者の言語能力および使う言葉や文の検討に怠慢があったからということでな
く、状況がもたらすプレッシャーのために複雑な意図をあまりにもシンプルな方法で伝え
ようと望んだからだった。もちろんテレビのマイクの前で巧みに話すひとびとの言語使用
能力が元々素晴らしいものだったとは限らないし、それは印刷メディアの記者やコラムニ
ストの文筆能力が元々素晴らしいものだったわけでないのと同じことである。われわれは
それを認めなければならない。


そのような「要するに相手が理解すればいい」という近道思想は、言語を含めてあらゆる
分野に溶け込んだわれわれの「インスタント大歓迎」文化の特徴と考えてよいだろう。

長期にわたって片付かない、あるいは反対に猛威を振るっている問題の解決にあれやこれ
やのブレイクスルーが必要だというセリフをわれわれは聞き飽きるほど聞かされている。
教育問題や汚職撲滅に至るまで、ブレイクスルーで解決するのだと。その結果は言うまで
もなく混乱ばかり。

皮肉なことに、伝達したい内容の核心を直接的に、且つ緻密で簡潔に言葉にして表現する
ことができないインドネシア人がたくさんいるという反対の特徴をも冒頭の混乱文は同時
に示しているのだ。討論会やセミナーなどで質問者と回答者が自分のコメントを開陳する
ときに、往々にして長ったらしい決まり文句をまず述べる。
Berhubung waktu yang sempit dan mendesak, maka saya akan langsung saja mengemuka-
kan pendapat saya ini ke inti permasalahan.


本当は、テレビ番組の司会者はただTerima kasih.と言えばそれでよいのだ。kebersamaan
というような言葉で付加的に伝えなければならない重要なことがらなどありはしない。そ
の番組の視聴者だけがトゥリマカシの言葉を聞くのである。他のチャンネルを点けている
視聴者がそのトゥリマカシの言葉を聞くことはまずないだろう。だから、自分の番組の視
聴者でない者に自分は感謝しているのでないということを司会者はわざわざ持ち出す必要
などないのである。

もうひとつ別の面について言うなら、真の意味におけるkebersamaanは視聴者参加番組で
ないかぎりそこに存在していない。視聴者がスタジオに電話をかけて意見を述べるような
番組であれば、電話をかけてきた人との間にだけkebersamaanが起こるのである。言うま
でもなく、司会者は電話をしてきたひとにだけ番組の終わりにトゥリマカシを伝えている
のではないはずだ。司会者は番組の結辞として、電話をして来なかった全視聴者に対して
もそれを述べているにちがいあるまい。

司会者はどうして「トゥリマカシ。」とだけ言って終わらせようとしないのか?可能性の
ひとつとして、kebersamaanという言葉がきわめてポジティブな印象、善の意図、そして
makan tidak makan asal kumpulを好むインドネシア的礼節の雰囲気を帯びていることを
その理由に挙げることができそうだ。この番組が提供した慰安や他の効用のために時間と
エネルギーを割いてくれた視聴者から司会者は恩を受けたという印象をそこにもたらした
いのだ。その大いなる好意に対して通りいっぺんの粗雑な「トゥリマカシ」だけでは失礼
に当たるにちがいあるまい。Terima kasih atas pembacaan anda!