「言語の論理と意味の伝達(3)」(2024年06月21日)

ライター: 文司、国語センター勤務、 ハサン・アルウィ
ソース: 2004年2月14日付けコンパス紙 "Kesempatan yang Berbahagia" 

とある結婚披露宴会場。司会者の定型スピーチが聞こえてくる。
Pada kesempatan yang berbahagia ini, pertama-tama marilah kita panjatkan puji 
dan syukur ke hadirat Tuhan Yang Mahakuasa yang telah.....

まったく意外性に欠けた長々しいスピーチが続き、司会者が終わりの言葉を述べるとき参
会者はやっと退屈さから解放される。
Sekarang tibalah saatnya bagi Ibu-ibu, Bapak-bapak, dan hadirin sekalian untuk 
menyampaikan ucapan selamat kepada kedua pengantin yang berbahagia.


「yang berbahagia」という句が二回も聞こえてきた。ひとつはkesempatan、もうひとつ
はpengantinという言葉に添えられて。pengantin yang berbahagiaの意味は「pengantin 
yang merasa bahagia」あるいは「pengantin yang merasakan kebahagiaan」を意味して
いる。ここでのmerasaとmerasakanの違いはmendengarとmendengarkanの違いのようなも
のだ。であるなら、kesempatan yang berbahagiaは「kesempatan yang merasa bahagia」
あるいは「kesempatan yang merasakan kebahagiaan」という解釈になって意味を形成し
ない。

pengantin yang berbahagiaが通じるのはpengantinという名詞が生き物である人間を指し
て使われているからだ。一方、kesempatanは感受性を持ったり動作をする生き物ではない
のである。そのクリテリアに従うなら、国民も国家指導者も、警官も泥棒もberbahagia, 
bergembira, bersedihになることができる。しかしkesempatan, peluang, peristiwaある
いはkejadianなどは感情の重みを背負った状態を示す文の主体者になることができないの
だ。

いつであれどこであれ、kesempatanはberbahagiaに決してならない。それはただわれわれ
をsedih, gembira, bahagiaにする潜在性を持っているだけなのである。それが実現され
たときにわれわれはkesempatan yang menyedihkan, menggembirakan, membahagiakanに遭
遇する。わたしは司会者さんにスピーチをこう変えるように提言したい。 
Pada kesempatan yang membahagiakan ini, pertama-tama marilah kita panjatkan puji 
dan syukur ke hadirat Tuhan Yang Mahakuasa yang telah.....


siapa yang berbahagiaという問題から次は、われわれの中の一部の人間に精神の平静さ
を失わせる可能性を持つ表現形式であるsiapa membohongi siapaの問題に移行しよう。行
政高官や社会的著名人が現実の状況にそぐわない説明や情報を述べたとき、それに対する
評価としてわれわれは即座に「その人物はkebohongan publikを行なった」とコメントす
る。

kekayaan pribadiという句がkekayaan milik pribadiという意味に解釈されるのであれば、
kebohongan publikはkebohongan milik publik、つまりkebohongan milik masyarakatと
いう理解にならざるを得ない。

そうなるのであれば、「パブリックに嘘をつかれたのは誰か」あるいは「パブリックは誰
に対して嘘をついたのか」という抗議の色合いを帯びた質問が出現するだろう。なぜなら
本質的に、kebohongan publikという表現は真実という視点から見た事実の逆転、あるい
は対話者間の位置付けから見た役割の逆転を引き起こしているからだ。もしもパブリック
に対して嘘をつく行為、プロセス、方法を示す概念を述べたいのであれば、この句の形式
はpembohongan publikにならなければならない。

混乱した言語使用は基本的に言葉を注意深く扱っていないことを示している。その原因は
われわれが問いかけをあまり、中には全然、しない点にある。他人に対してにしろ、自分
自身に対してにしろ、だ。いや、そのことをそれほど問題にする必要はないかもしれない。
そんな言葉の扱い方がわれわれにはもう普通のものになっていたではないか。自分と似た
ような言葉の扱い方を他のひとたちもみんなしているじゃないか。おまけに言葉というの
はその使用者集団の共通合意によって姿形が形成されるものだ。集合的言語使用行為の方
が共通的普遍的でないものよりも重要であり有益性を持っているのではなかったか?

言語の主要機能はコミュニケーションツールであることに加えて、思考するためのツール
でもある。正確なツールの使用が思考の完璧さと深みを生み出すだろう。われわれはブキ
ッティンギで開催された今年の文化コングレスにおけるパプア代表者の発言が意図したも
のをそのメカニズムの中で理解しなければならない。2003年11月6日付けコンパス
紙のロシハン・アンワルのレポートに見られるように、パプア代表はこう語った。
われわれは善くて正しくインドネシア語を学んだことを後悔している。なぜなら、われわ
れが外のひとたちと接する中で証明されたことがあるからだ。かれらが使っているインド
ネシア語はとても混乱している。