「アラブラブストーリー(3)」(2024年06月26日) 「ロメオとジュリエット」が西洋世界における悲恋物語の最高傑作だとすれば、アラブ世 界におけるその対抗馬はきっと「ライラとマジュヌン」だろう。バイロン卿がその物語を 知って「これは東洋のロメオとジュリエットだ」と評したが、シェークスピアがロメオと ジュリエットを書いた16世紀末よりはるかに古い時代からライラ マジュヌンの物語は 語り継がれてきたのであり、必然的にさまざまなバージョンの物語が巷に飛び交うことに なるのは避けられなかった。 11〜13世紀ごろ西洋で作られた物語は東洋の伝統的な物語の影響を受けたものが多く、 ゴットフリート・フォン ストラスブルグの作品「トリスタンとイゾルデ」やフランスの 「オーカッサンとニコレット」がその代表例だと語るヨーロッパ人文学者もいる。 アラブ半島から中央アジアにかけての一帯で、ライラ マジュヌンはいまだにエバーグリ ーンの文芸作品として一般大衆に知れ渡っている物語だ。アラブ・トルコ・ペルシャ・ア フガン・タジク・クルディ・インド・パキスタン、そしてアゼルバイジャンでも。 この悲恋物語を文学として文字化したのがアゼルバイジャン人のイラン文学者であるニザ ミ・グンチュヴィ(ペルシャ語でネザミイェ ガンジャヴィ)だった。イラン文学最高の ロマンチック詩人と評されているニザミはライラ マジュヌンのバージョンのひとつを8 千行に及ぶ美しい韻文詩で物語り、この悲恋物語を美しいラブロマンに仕立てあげて世に 送り出し、世界の最高傑作ラブストーリーの道を歩ませた。 ニザミ・グンチュヴィは筆名だ。本名はアブ・ムハンマッ・イリヤス・イブン・ザキ・ム アイヤッと言い、1141年にアゼルバイジャンのガンジャという町で生まれた。父はペ ルシャ人でその町へ行政官僚として赴任し、その町のクルド族の首長の娘と結婚した。そ の当時、イランとアゼルバイジャンの間には深刻な紛争が続いていた。ニザミはそんな状 況の中で成長したはずだが、かれの人生がどのようなものであったのかについての詳細は 何も伝えられていない。かれは1209年に生涯を閉じた。 ペルシャ文学の中にこの偉大な詩人が占めた位置は、他のだれにも取って代わることので きないものだった。かれの詩が物語る内容は広範な分野に及び、アラブとペルシャの文学 形式を文筆と口誦の両面で自家薬籠中の物にしていた優れた才能が作品のあちらこちらに きらめいている。かれが謳った詩の中に、数学・幾何学・天文学・占星術・化学・医学・ アルクルアン・神学・イスラム法・音楽・視覚芸術などの諸分野を深く究めたニザミの知 性の断片をわれわれは見出すことになる。 ニザミはライラ マジュヌンの悲恋物語をイスラム勃興前のジャヒリヤ時代、つまり西暦 6世紀のメッカの町という背景の中に置いて物語を描いた。アラブ詩人たちが作る恋愛詩 が世間から高い人気を集めていたのがその時代だ。ニザミの謳った8千行の詩の各行に悲 劇の恋人たちを襲う運命が克明に描き出されている。最終行で恋人たちの死が語られたと はいえ、それはふたりの恋愛それ自体の死とオーバーラップしなかった。 ニザミの著作はたくさんあり、高い知性と芸術性に満ちたそれらの作品は西暦12世紀後 半というあの時代においてきわめてユニークなものだったと評価されている。ニザミがラ イラ マジュヌンを書いたのはシルヴァンとダルバンの支配者であるシルヴァンシャに依 頼されたためであり、1188年に書き始めて1197年に作品が完成した。 ニザミが謳った各行の内容に合わせて数かぎりないイラストが描かれ、それが世の中に出 回った。西暦紀元15〜17世紀がイラスト作りのピークだったようだ。当時作られたイ ラストは世界の各国に散らばり、今は博物館や美術館で保管されている。ニザミのオリジ ナルの書物も1部だけアゼルバイジャンの首都バクに保存されている。 アゼルバイジャンの作曲家ウゼイル・ハジベヨフがLeyli and Majnunと題するオペラを作 り、1908年に初演された。バクのオペラバレーシアターでは毎年必ずこの演目が取り 上げられている。この音楽作品はイスラム世界ではじめて作られたイタリア風オペラと言 われている。[ 続く ]