「世界を揺さぶったスパイス(44)」(2024年06月26日)

カプルの木がなくなれば、樹液も樹脂もできるわけがあるまい。天然の樹液も樹脂も得ら
れなくなってしまったが、産業界は化学合成品がそれを代替したために何も不満はないよ
うに見える。

しかし昔のアラブ人貴族層はマスク花・アガーウッド・アンバーグリス・サフランとカフ
ルを5大香料として日常生活の中で利用し、ステータスシンボルとして使っていた。はた
して化学合成品がその地位を代替することができただろうか?

かつてアッバス朝下のアラブ社会では貴族層が行なう宴において、食事の後にいつもカフ
ル樹液で手を洗うことが励行され、手の良い香りが社会交際に必須のものとされた。ある
いは香水を作るとき、何か別の香料をカフル樹液に溶かしてバリエーションを愉しむよう
なことも行なわれた。

樹脂のほうは加工されたものが医療の分野で使われた。特別なカフル樹脂の加工器具がア
ラブで発明されたようだ。9世紀のアラブの科学者アル キンディが考案した器具のスケ
ッチがかれの自著の中に描かれている。樹脂は火の上に置かれると煙になり、その煙は器
具の上部にくっついて固形化する。その白い素材をこそげ落としたものがアラブで医療の
ために使われた。その白い素材がヨーロッパでカンファーと名付けられたのだ。


しかし、5大香料というのはむしろアラブ医学の薬用素材という意味合いの方が大きかっ
たようだ。8世紀にはカフルの輸入量が増加したらしく、アラブやペルシャでカフルの薬
用効果が広く認知されるようになった。

アヴィセナと西洋世界で呼ばれている、医学の父として知られている人物はアラブ人イブ
ヌ・シナのことだ。医療と医薬の百科事典であるかれの著作「アルカヌン フィアルティ
ブ」の中にカフルの薬効が記されている。精神安定・解熱・手術の前後に患者に投薬・肝
臓機能回復・下痢止め・頭痛緩和・鼻血止め・口内炎治療などに効果がある。また埋葬さ
れる遺体を洗い清める際に用いられる。

アラブ医学はその時代に世界の最先端を走っていたため、カフルは薬剤としてギリシャや
アルメニアに広まって行った。バルスからのカプル船積み量は目に見えて増加していった
にちがいあるまい。


Barusはアラブ語でFansurという地名になった。しかしカプルとカフルほどの親近性をこ
のケースはわれわれに感じさせてくれない。アラブ語が国際語になっていたことの帰結が
それだったのかもしれない。

16〜17世紀のイスラム界に名を轟かせたバルス出身のスーフィー信徒文学者ハムザ・
アル ファンスリの名前をわれわれは知っている。かれはスマトラ人だった。しかしバル
スの町や近郊をいくら探しても、ハムザの足跡を示すものは見当たらない。実に「バルス
のカプル」のストーリーと瓜二つであるように見える。[ 続く ]