「言語の論理と意味の伝達(4)」(2024年06月28日) ライター: 作家、クルニア JR ソース: 2009年8月28日付けコンパス紙 "Kesaksamaan" シドニー・ジョーンズ氏がテレビでインドネシアのテロリズムに関する最新情勢をコメン トした際に、かれはおおよそこんな発言をした。 「...mereka bergerak dalam kelompok yang jumlahnya kecil...」 わたしが拾ったインドネシアの諜報とテロリズム分野のオブザーバーの文はインドネシア 母語者の間で特徴的な誤文型なのである。インドネシア語を話すとき、シドニーはけっこ う流暢で文法的にも正確なインドネシア語を使う外国人であるというのに。 正しくは、「kelompok kecil」あるいは「kelompok yang anggotanya sedikit」と言うべ きだった。なぜならその文脈は、かれが述べたkelompokという単位の中身の数について語 っているのだから。「kelompok yang jumlahnya kecil」というクローズは意味の混乱を 孕んでいる。それはkelompokという単位の外にいる数についてでもなければ、kelompokの 中にいるメンバーの数を述べているのでもないのだ。 ヌサンタラの地で爆弾事件やテロ行為が起こると、シドニー・ジョーンズはよくテレビ記 者のインタビューを受ける。かれのインドネシア語はなかなかしっかりしたものである。 ということは、日常会話の中で数量表現を行なうときに正確さということに対してあまり 敏感でない一部の母語者の習慣にかれが引っ張られた結果が多分今回のできごとだったの だろう。 普通、話し相手が理解すれば情報はそれで伝わるのだ。母語者の間でそんなことが繰り返 されて、数量というアスペクトにおける正確さは致命的な重要さを帯びているという本質 が軽視されるようになり、インフォーマルな会話ならまだしもフォーマルな形式からは排 除されなければならないということまで忘れ去られてしまった。 pasukanという言葉についても、似たようなことがよく起こる。今わたしがこれを書いて いるとき、テレビにこんな文が流れた。「Polda Sulut kerahkan 3 ribu pasukan amankan Sail Bunaken.」われわれは習慣にもとづいて、この文は「北スラウェシ州警察がその催事 の保安のために3千人の要員を動員する」という意味であると理解するのだが、本来的な 解釈をするなら、動員されるのは3千のpasukan(部隊)であり、各部隊が何人の要員か ら成っているのかは見当もつかない。 タクシーに乗って運転手とリラックスした会話を交わす乗客がときどきこんな質問をする。 「Sekarang taksi ini jumlah armadanya berapa, Pak?」 非母語者だがインドネシア語を流暢に使うダニエル・レヴ、R ウィリアム・リドル、ジ ョン・マグリンなどの諸分野におけるインドネシアニストに見られるように、かれらは標 準のインドネシア語をマスターして柔軟に使っている。話すにしろ書くにしろ、概してか れらは文型に多大な注意を払っている。会話の中でかれらが話すインドネシア語は整然と しており、ましてやかれらが書くインドネシア語はなおさらだ。 講義の場で、あるいは新聞記者に話すとき、あたかもかれらの頭に明瞭で簡潔ではっきり した実用的な文法パターンが浮かんでいるかのようだ。語法でもシンタックスでもかれら は迷いを見せない。かれらは学校インドネシア語を学んで使っているのだとわれわれは考 えるだろう。しかしそれは弱点でなく、その反対なのである。日常的な相互交流の中で互 いに影響し合うことが起こりうるにせよ、かれらは母語者の中にいてインドネシア語の発 展をいっしょに支えているのだ。それは自然なことなのである。