「天の蝕(1)」(2024年07月01日)

46億年前に太陽系宇宙が出現して以来、日蝕月蝕はあって当然の自然現象として発生し
ていた。だが人間の多くは実に長い期間にわたって、それを恐怖や不安の心で眺めた。古
代に生まれた宗教の中には、それを見てはいけないという教えを垂れたものさえある。

太古から中世ごろまでの時代には、天体に起こるこの異常現象にほぼ世界中の人類と動物
たちが怖れ慄いていたような話がネット上に散見される。太古の人々は日蝕や月蝕を、人
間に向けられた神の怒りを示すもの、巨人が太陽や月を呑み込むために起こるもの、地上
の生命の終末などといった悲観論で解釈した。

日蝕と月蝕は発生頻度が異なり、地上の生き物にとって日蝕の発生は昼、月蝕の発生は夜
という付帯状況の違いがある。また部分蝕と皆既蝕の間にも喪失感の違いがあるだろう。
やはり地上の生き物にとってインパクトが大きいのは皆既蝕だろうと思われる。ほんの端
っこが欠ける程度の蝕であれば、天文台が教えてくれないかぎり誰も気付かないで見過ご
すことも起こったはずだ。

人間の生活感覚においてわたし個人はやはり、皆既日蝕のほうが皆既月蝕よりも大きいイ
ンパクトを持っているように推測する。昼明るく夜暗い人間の生活で、昼明るい環境を作
り出す根源が黒くなるのだから、そりゃ怖いだろう。昼間に天地が薄暗くなっていけば、
この世の崩壊を感じるセンシティブな人間や動物もきっとたくさんいたに違いあるまい。
一方、暗いのが当たり前である夜に天で光を放つ月は普段でさえあったりなかったりする
のだから、月が赤茶色に変色したとしても太陽が真黒くなるほどの恐怖感をもたらさない
かもしれない。


そのような庶民感覚とは別に、古代天文学者が日蝕月蝕の予測を行っていた文明もあった
ようだ。そうであれば、そんな予知予測に携わったひとびとは日蝕月蝕が単なる自然現象
であることを知っていて、そのような現象が起こったときでも一般庶民のような恐怖や不
安を持たなかったのではないだろうか。

つまり本能に従って一律にネガティブな精神反応を引き起こす大勢の人間と、当たり前の
できごとであるとクールにその大自然のページェントを眺める少数の知性の選民、という
人間の器の大小がそこに示されているようにわたしは感じる。いったい何が原因なのか見
当もつかないとはいえ、大昔からこのような人間の種類の差が厳然と存在していたことは
誰にも否定できないのではあるまいか。

人間は平等であるという西洋世界に発生したヒューマニズムがどう転んで歪んだのか、い
つの間にか人間は同じであるという観念に拡大し、人間を同じにするための大衆教育がシ
ステム化されて実践され、ひとりひとりの脳内に同じ知識を持たせることが国民教育の目
標にされてしまったようにわたしは感じている。

おかげで日蝕月蝕を本能にしたがって怖れ慄く人間はほとんどいなくなったのだが、脳内
に同じように蓄積された知識を現実生活の中で使う際の巧拙までは、百数十年にもわたっ
て実践されてきた教育が扱える問題でなかったようだ。だから記憶した知識を単に口から
出したり引っ込めたりするだけの人間と、その知識を全身で消化して自分の生活に反映さ
せることのできる人間という器の大小は相も変わらず維持されていて、あのような方法で
人間を同じにしようとした教育では狙った目標の達成が不可能なのではないかと思わせる
段階に既にさしかかっているように見えるのである。人間は決して同じにならないのでは
ないだろうか?


蓄積した知識量の大きい者が優れた人間であるという価値観が世の中に形成されれば、そ
れを実生活で応用する技能の巧拙は人間の優秀さを審査し評価する対象項目に加えられな
くなるだろう。社会にとってより有益な人間はどちらなのだろうか?

情報知識を脳内に蓄積しなくとも電子頭脳がその代替を果たす時代に入ってきたというの
に、いつまでも脳内容量ばかり測定していてもあまり意味がないのではないか。ところが、
インターネットという種類の電子頭脳は大衆化が行われたことによってhoaxがあふれかえ
り、この代替頭脳は人間社会にとってむしろ有害なものになりそうな趣が感じられる。そ
うなれば、それは代替頭脳として使うことができず、やはり人間の脳内知識量で勝負せざ
るを得なくなりそうだが、かえって有害なホウクスが脳内知識を汚染させているためにそ
の個別項目の正誤までをも審査しなければならないという、とんでもない状況に人類は陥
りつつあるような懸念をわたしは抱いている。[ 続く ]