「天の蝕(6)」(2024年07月08日)

満月を呑み込もうとしているバタラカラの絵はCandra sinahut Kala(月がカラに噛まれ
る)と読むことができる。チャンドラは数字への置き換えが1、シナフッは3、カラは9
であり、スンカランの数字は右から左に読むために931をわれわれはそこに見出すこと
になる。サカ暦931年は西暦で1009年に該当する。

1009年にジャワ島で起こった天の蝕の日付を計算すると、10月7日に皆既月食が午
前4時8分に始まり、6時にピークになって8時45分に終わったことが判明した。日の
出がこのドラマを中断してしまったはずだ。

その年には全世界で太陽の部分蝕が3月29日、4月27日、9月21日、10月21日
の4回、皆既月食が4月12日と10月7日の2回発生している。しかしジャワのひとび
とが目撃したものは10月7日の月蝕だけだった。


この石像の制作者が示そうとしたのはそのできごとだったのだろうか。だったら月蝕であ
るというのにどうしてスルヤとチャンドラを想像させる人物の姿をそこに加えたのだろう
か。その点を捉えて、これは実際に起こった自然現象を記録しようとしたものでなく、自
然はこのような現象を示すものなのであるという教訓を示すことが目的だったのではない
かと考える学者の声もあるのだ。たとえそうであったにせよ、サカ暦931年が謳われた
ことによって、いずれにしろわれわれには古代ヌサンタラの蝕の記録が手に入ったことに
なる。10月7日の月蝕だけでなく、それ以前の何年か分からないにせよ日蝕がジャワで
起こったことがあるということも。

その他にも碑文に書かれた日付と月蝕の発生日が同一になっている遺物がいくつかある。
しかし碑文の中に月蝕を示す言葉は一言も含まれていない。過去の月蝕の発生日は天文学
上の計算で割り出されたものだから、碑文とは無関係なデータとして存在している。そし
てその日付と石碑の建立や公開の日付が一致するものが多いことが研究者の興味を引いた
ということではないだろうか。

蝕の発生を知らないまま碑が作られ、それが昼に公開の式典を行ったあとで夜に月蝕が起
こったり、または夜に行っていたら月蝕が発生したという情景が思い浮かぶ。そこから、
月蝕や日蝕の発生を予測することはそのころまだヌサンタラのひとびとにできることでは
なかったという結論が引き出せるにちがいない。

ジャワとバリで発見された次のような遺物が月蝕の日に設置され、あるいは公開されてい
る。石碑の建立と月蝕は偶然重なったものと考えざるを得ないのである。

【Prasasti Tryyan】
東ジャワ州マラン県のTurenで発見されたので別名トゥレン碑文とも呼ばれる。自然石を
高さ130センチ、幅118センチ、幅21センチに伐り出したものの断面にびっしりと
文字が刻み込まれている。
クラワラ村住民のダン アトゥ プ サヒティヤがンプ シンドッ王に聖所を建てるための土
地を与えたまえと願い出て、王がその願いを叶えてトゥリヤン村の水田の一部を与えたと
いう経緯がそこに記されている。この碑文は西暦929年7月24日の日付で作られ、そ
の日に聖所が設けられる土地に建てられたものだった。その夜20時ごろに皆既月蝕が起
こったのである。

【Prasasti Batwan B】
バリ島で発見されたバトゥワンB碑文の日付は西暦で1055年4月14日となっている。
その夜にはジャワ・バリの天空で部分月食が起こった。

【Prasasti Malenga B】
東ジャワ州トゥバンで発見されたサカ暦974年、西暦の1052年8月22日の日付を
持つマレガA碑文をサカ暦1258年、西暦で1336年9月21日に複写したものがこ
のマレガB碑文だ。複写しているとき、夜23時ごろ半影月蝕が起こった。

【Prasasti Kusmala】
シゴサリ王国のクスマラ堤防工事の完成を記念して石碑の建立を行っていた西暦1350
年12月14日19時ごろ、半影月蝕が起こった。
[ 続く ]