「天の蝕(7)」(2024年07月09日)

そのようにインドネシアでは月蝕の記録がたくさん見られる一方、日蝕に関するものはあ
まりない。それは日蝕の発生が少ないのが原因だという理由が語られていて、確かにそれ
も一理あるように感じられる。日蝕の場合、大きい蝕にならなければ気が付かない可能性
が月蝕よりも高いのではないかという気がわたしにはするのである。誰でも気付く皆既日
蝕や金環蝕が高い頻度で起こったのであればまだしも、2千数十年間に十数回という頻度
であればさもありなんという気がしないでもない。

専門家の試算によれば、ヨグヤカルタで起こった皆既日蝕と金環蝕は西暦元年以来14回
しかなかったそうだ。明細は次の通り。
【皆既日蝕】
435年8月10日
515年10月23日
714年2月19日
928年2月24日
1502年4月7日
1683年7月24日
1983年6月11日
【金環蝕】
117年3月21日
605年6月22日
829年11月30日
916年9月30日
1025年11月23日
1571年7月22日
1731年7月4日

しかし日蝕を物語る古代の碑文がバリ島で見つかっている。キンタマニ地方のバトゥル湖
畔にあるブワハンなどのいくつかの村々で発見されたprasasti Bwahan Wingkang-ranuは
王が領民に出した布告状であり、銅板に刻まれた古バリ文字の中に日蝕と月蝕を意味する
言葉が書かれていた。つまりこれは蝕の発生を記録した時事的なものではない。

ブワハン碑文は23個の銅板に刻まれた西暦994年から1181年までの年号を持つ碑
文で、AからEまで5つのグループに分けられている。1181年の日付を持つDグルー
プの中に、日蝕や月蝕が起こったときに行われた水牛や豚の売買は費用を免じることが謳
われている。この布告を出したのはアイルランガ王の血を引くジャヤパグス・アルカジャ
チッナ王であり、ジャヤパグス王はDとEの碑文で領民に対し、租税の軽減を公表してい
る。その一項目が国に納める売買費用の免除だったのだ。

太陽の子孫を名乗るジャヤパグス王にとって、日蝕は特別の意味を持っていたようだ。ア
ルカジャチッナという言葉はこのように分解できるのである。
arka(matahari) 
ja(keturunan) 
cihna(tanda)

ジャヤパグス王は西暦1178〜1181の三年間、ワルマデワ王朝の王位に就いた。バ
リのワルマデワ王朝は西暦9世紀末または10世紀初にシュリ クサリ ワルマデワがバリ
にやってきてから始まった。かれの赴任はスリウィジャヤがバリを征服したことの結果で
あり、かれはスリウィジャヤの現地総督としてバリにやってきたようだ。スリウィジャヤ
が仏教国であり、大乗仏教布教に大きく力を入れていたことから、ワルマデワ王朝も仏教
で始まったと推測できる。

ジャヤパグス王の王位就任がわずか3年間だったのは、ひょっとしたらそのときかれは老
齢だったからかもしれない。かれは王位に就く前、1133年から1173年までキンタ
マニのプリバリンカン宮殿に住んだと言われている。


バトゥル湖からまっすぐ西に35キロほど離れたタンブリガン湖畔の村々でも西暦118
1年にジャヤパグス王が出した銅板の布告状が1969年に多数発見された。prasasti 
Buyan-Sanding-Tamblinganと呼ばれているこの碑文も同じように租税の軽減を内容とする
ものになっている。その地域で商業をなりわいにする多くの者が租税のためにダルマを行
うことが困難になっていて、世の中に混乱が生じているのでそれを正さなければならない
という主旨で王は租税の軽減を決めた。

その決定事項の中にやはり月蝕や日蝕の言葉が見つかっている。月蝕や日蝕が起こったと
きにtarang-taranganを行ってはならないという禁令が記されているのである。ところが
タランタラガンという言葉が何を意味しているのか、いまだに解明されていない。何かを
天日干し、あるいは燃やすことなのか、それとも直接日蝕を裸眼で見ることか?あるいは
神への奉納儀式のひとつなのだろうか。[ 続く ]