「茶碗の中の指輪(1)」(2024年07月22日)

インドネシア語を学び始めた日本人が指輪や茶碗のインドネシア語を教えられて歓びはし
ゃぐ風景はまだ続いているのだろうか?公的な場面で、そこに出現してはならないはずの
卑猥な言葉を聞くとうれしくなるのが人間という動物のようだ。笑いは人間にとってより
良き生を形成する重要な要素だから、なるべくたくさんあるのがいい、という総論が定理
として言えても、他人が自分を笑うと自分の中に怒りが発生するというメカニズムはその
定理に対する反定律になって、せっかく生じた笑いをゼロサムにしてしまうように思われ
る。みずから自分を他人の笑いものにしているピエロの姿に哀しみを見出す感受性を持つ
ひとは、自分が他人から笑われたときに怒りと哀しみのどちらの感情をより多量に持つの
だろうか?

イタリア語でも、もちろん意味は異なるものの、似たようなことが起こるのではあるまい
か。「乾杯」とか、「左の」といった単語でだ。何語によらず、日本語単語と同音だが意
味が違うものはあって当然だろう。ナポリ語でアネマエコーレを唄うとやはりそんな発音
の単語が出て来るので、気にしていると歌も唄えなくなるから、外国語を使うときには日
本語の意味を忘れてしまうほうがよいようにわたしは思う。インドネシア語ペラペラのあ
なたは指輪や茶碗のインドネシア語に対してきっとそうなさっているにちがいあるまい。


ある社会でタブー視されている単語を外来者が知らないまま発音してしまうことはしばし
ば起こる。地方語が715もあるインドネシア共和国では、その蓋然性がきわめて高いは
ずだ。国語であり民族共通語でもあるインドネシア語の常用単語が、ある地方へ行くと性
器を指す言葉に使われているという現象はザラにあるそうだ。

そう言えば、昔わたしが体験したできごとの中にそれに似たようなことがあった。ただ、
この体験談の本質は少々込み入っているのだが。


あるときわたしは会社でインドネシア人スタッフに恥というテーマでスピーチしたことが
ある。インドネシア語のmaluという言葉は形容詞だから、日本語抽象名詞の「恥」という
概念を、人間の感情の中に現れる受動的な情緒でなくてその情緒を出現させる起動力とし
て社会に存在する恥というものをインドネシア人に伝えるために名詞形にしなければなら
ないと考え、kemaluanという形でインドネシア人に語った。そして笑い声が起こった。

なんと、形容詞maluの名詞形であるkemaluanは性器を示す代替語として世の中で流通して
いたのだ。この現象はある意味で日本語とそっくり同じように思われた。日本語で性器を
意味する暗示的な代替語に恥部という言葉がある。ただし日本語の場合は恥部=性器では
ない。「恥ずかしい部分」というのが恥部の意味する所であり、その恥ずかしい部分のカ
テゴリー中に性器が含まれているのだ。

ところがインドネシアでは一般民衆生活において、恥部=性器になってしまったように見
える。kemaluanという語形がいかにイ_ア社会で性器の代替語として幅広く使われている
かはグーグル検索やグーグル画像を調べればよく分かるだろう。だから一般レベルの知性
を持つインドネシア人はその言葉を耳にすると突然笑い出すのである。こちらは「恥」と
いう抽象名詞を語っているつもりなのに、聞き手は「チン◎・マン◎」のイメージが脳内
で躍動しているのだから、話が通じるはずもない。

KBBIはkemaluanの語義を1.mendapat malu(動詞), 2.hal malu(名詞), 3.alat 
kelamin(名詞)と解説しており、上述のわたしが得た社会体験とはウエイトの置き方が
異なっている。性器でない意味の恥部は多分、2.に該当するのだろう。実際に、文明社会
の恥部などという意味でこの語が使われるケースも見受けられるから、恥部という概念が
インドネシア語の中に存在しないとも思えない。[ 続く ]