「茶碗の中の指輪(2)」(2024年07月23日)

ところがわたしの語りたかった日本語の「恥」という言葉にはもっとシンボリックに蒸留
された抽象概念もが含まれている。「恥」は「恥ずかしく感じる」という精神感覚的な現
象に始まって「社会的に名誉や面目が失われること」に至り、更に発展して「名誉や面目
を失わせる外在的抽象物」という語法を持つまでになった。このレベルにおける恥とは、
人間が社会生活をする中で自己に対立的に存在しているものであり、人間が社会の中で対
面する相手なのである。

恥ずかしいという、人間の精神が抱く感覚はあくまでも内在的なものであり、人間の生き
方に向こうから関与して来る外在的な恥の感触をそこから得ることはできないのだ。

インドネシア語でmaluを名詞化する場合、aibというアラブ語由来の別単語(形容詞)を
使ってkeaibanと名詞化すれば性器の問題は解消するのだが、もしもそれが単に「恥ずか
しいこと」という理解にとどまるのであれば、外在的抽象物としての「恥」という重みは
伝わらない可能性が高いだろう。

現実にmaluの名詞形はrasa maluが圧倒的に使用頻度が高く、その語感だと内在的な精神
感覚しか示していないと考えられるため、外在的抽象概念のニュアンスは伝わりそうにな
い。果たして、keaibanがその役を担うことができるのかどうか、わたしにはよく分から
ない。


インドネシア人が地方へ行って普通のインドネシア語を使っていたら、その単語はその地
方で恥ずかしい意味を示す言葉だった、というできごとについて、文学者アヤトロハエデ
ィ氏はいくつかの実例を書いている。かつて大阪外国語大学インドネシア語学科で客員教
授を務めたアイプ・ロシディ先生の実弟がかれだ。

あるとき、農業振興を目的にして南カリマンタンの奥地を訪れたひとがそこで講演を行っ
た。聴衆はみんなニコニコと話を聞いていたが、だんだんと大笑いに変化した。農民の福
祉的生活を目指して農耕作業をしっかりと行おうという内容の話をしているのに、なんで
そんなに可笑しいのだろうかと講演者は訝しんだ。

スンダ人の講演者は農作業に使う必需品である鍬のことをpaculと呼んだ。cangkulという、
鍬を意味する別の単語もあるのだが、そのときなぜかかれはパチュルを使ったのである。
そしてそれが失敗の元だったことが判明した。聴衆が大笑いする中で、「本当にその通り
だ。パチュルはわれわれにとって一番重要な道具なんだから。」と叫ぶ声も混じってかれ
の耳に届いたのだ。

講演が終わって笑顔のひとびとが講演者に握手を求めてきた。その中のひとりがかれに教
えた。「パチュルとはこの土地の言葉で男性器を意味してるんですよ。」


たいていの文化で若い女性たちは大喜びすると叫び声をあげて飛び跳ねる。ジャワ人女性
も決してたいした違いがあるわけではなく、現代ジャワ女性の所作ふるまいは十分に国際
化している。しかし昔のジャワ文化では、しとやかな女性はそんなはしたない真似をして
はならないと教育され、大声をあげてカンラカラカラと笑ったり、バタバタと走り回るの
は教養ある女の作法ではなくて、それは娼婦のふるまいだと教えられた。しかし現代西洋
文明はそんな価値観を怒涛のようにどこかに押し流してしまったのである。だから現代ジ
ャワ女性も心おきなく呵々大笑し、ドタバタと走り回っている。

歓喜の叫び声をあげて飛び跳ねる振舞いをインドネシア語でbertempik sorakと言う。ジ
ャワ人でないひとびとはそんなジャワ女性の振舞いをbertempik sorakと表現するわけだ
が、ジャワ人は決してそう言わないのだ。そんな状況を表現するとき、ジャワ人はいつも
bersorak-sorakあるいはbersorak-soraiなどと言うだけで、tempikという言葉を口にしな
い。どうしてか?

ムラユ語でtempikはsorakを意味している。ところがジャワ語のtempikは女性器、特に少
女のそれ、を意味しているのだ。礼節を識るジャワ人がそんな言葉を他人の面前で使うは
ずがないだろう。[ 続く ]