「言語の論理と意味の伝達(7)」(2024年07月30日) ライター: ジャーナリスト、言語教育学修士、ムリヨ・スニョト ソース: 2017年6月10日付けコンパス紙 "Lenyap" 「Kulenyapkan kau!」 「Mereka sudah melenyapkan musuh kita.」 「Lenyapkan dia!」 「Sudah lenyapkah bajingan itu?」 民法TVのいくつかのチャンネルで放送されている、インドやトルコから輸入されたシリ ーズドラマのインドネシア語吹替の中で述べられているセリフの中に上のようなものが見 つかる。 少なくともここ三年ほどの間にlenyapの語は、血と涙で味付けされたシネトロンのセリフ の中からbunuhやbantaiという単語をmelenyapkanしてしまった。「無くなる・見えなくな る」という語義のこの言葉を「暴力的に人間の生命を失わせる」という語法に応用したそ のアイデアをいったい誰が考え出したのだろうか。吹替セリフのライターが自発的に行っ たのかもしれないし、番組放送コミッションのメンバーからのアイデアだったのかもしれ ない。 その語法が出現した背景は容易に推測することができる。青少年や知性の高くない大人た ちで満たされている公共スペースにおいて、大衆の好むエンターテインメントをみんなが 楽しむために、言語暴力の要素を、無くすとまでは言えないにせよ低減させるためのもの だろう。その理屈は一見して、十分に納得できるものである。青少年をはじめ一般大衆に membunuhやmembantaiなどの動詞を続けざまに聞かせるべきではないのだ。そうかと言っ て、menembak, menyembelih, menggorokなどの具象的な言葉に替えるのも利口とは言えな い。こうして暗示的な同義語であるmelenyapkanが、従来しばしば使われていたmembunuh を意味するmenghabisiに替わって選択されたのである。 疑問は、lenyapの語感がbunuhに較べて残虐性が本当により小さいのかという点にある。 社会・政治・宗教などのどの分野においてであれ、暴力の歴史において「消す」という表 現は想像を絶する下卑たイメージを呼び起こすものなのだ。今日に至るまで、使徒パウロ、 ディパ・ヌサンタラ・アイディッ、ウィジ・トゥクルたちの遺体がどこに消えたのか、あ るいは消されたのか、それを明確に言える人間はひとりもいない。かれらは生命だけでな く遺体までもが消えたのだ。 かつての専制時代にひとりの将軍がレポーターをこんな言葉で威嚇した。「よく覚えてお け。こんなことをまた書いたら、ワシはお前はヘリから海に放り投げてやる。」 ancaman pelenyapanがこれだ。マフィアの世界でpelenyapanは、数ある残虐な手口のうち のもっとも残虐なものが使われる。劇薬で満たされているドラム缶の中に死体を沈めるの もそのひとつ。最近起こった、汚職撲滅コミッション捜査官ノフェル・バスウェダンの顔 に邪悪な男が振りかけた、あのような劇薬だ。もっと邪悪な男がその邪悪な男にそれを命 じたのがその事件の背景だったのだが。結局のところ、lenyapという語の選択はイメージ の中で暴力的要素を低下させることにあまり成功していないように感じられる。 じゃあ、この問題の抜本的解決はどうなるのか?解決は根源をたどって行くことで得られ る。銀幕であれTV画面であれ、エンタメクリエータは人間性暴力をビジュアルに見せる シーンを皆無にするか、それが無理なら最小限にした作品を作ることに努めるのだ。 それは可能だろうか?輝かしいクリエータたちの才能を見る限り、誰が不可能だと断言で きるだろうか。ロマンチック・エロチックで陶酔的な安物恋愛小説から生々しい表現を取 り去って芸術作品に組み替えることだって、必ずできるのだから。 God of Small Thingsの中でアルンダティ・ロイは、未亡人アンムクティと童貞青年ヴェ ルッタの間に燃え上がった恋をベッドシーンなしに、実に魅力的に描き出すのに成功して いる。暴力シーン嫌いの著名映画監督もそのシネマトグラフィ技術を駆使して、主役が受 けた拷問シーンをビジュアル化することなく、子供たちを含む観客の心にそのイメージを 描き出すことを行っている。 公共スペースに流される放送素材から画像であれ音声であれ、暴力シーンをミニマイズす るために、そのような汗と涙の努力が払われなければならないのだ。bunuhという言葉を lenyapに置き換えただけで、それでオッケー万事終了というような簡単な問題ではないの である。