「インド洋の時代(12)」(2024年09月03日) それとは別に、ジャワ島南岸部に設けられる大型港にはもうひとつ別の重要な役割が期待 されていた。ジャワ島の表玄関は北岸部であり、仮想敵によるジャワ島侵略が北岸部を目 指してやってくるだろうことはオランダ本国も植民地自身も十分に理解していた。インド にいるイギリス軍はほどなく仮想敵のリストから抹消されたのだから。 インド洋のこの港は裏口なのである。表口で騒動が起こって最悪の事態に至ったとき、裏 口が作られていればそこから脱出することができるのだ。対岸のオーストラリアへ、ある いはインドやセイロンへ。そして日本軍がジャワ島へ進攻してきたとき、そのシナリオ通 りのことが行われた。 いや、そればかりではない。日本海軍がオランダ東インドへの進攻を開始して1942年 1月11日にタラカンとマナドに上陸し、カリマンタン島とスラウェシ島を南下しながら 制圧を進め、更にアンボン・ティモール・バリなども2月中旬過ぎには占領してジャワ島 北側は海も空もほぼ日本軍の手中に落ちた。そんな最中に、アメリカ空母ラングレーがジ ャワ島の航空戦力強化のためにP−40を32機積んで2月22日、オーストラリアのフ リマントルを出港したのだ。ジャワ島に表口から入ることは不可能だったから、目的地は 裏門のチラチャップになった。 しかしラングレーはチラチャップ目指して航行途中に、バリ島トゥバン飛行場に進出して きていた高雄航空隊の一式陸攻9機編隊に発見されて攻撃を受け、一波二波は切り抜けた ものの第三波の攻撃で被弾し、大破炎上した。 そしてチラチャップまであと120キロという地点で航行不能に陥り、2月27日に護衛 駆逐艦の砲弾と魚雷で海の藻屑となった。バリ島トゥバン飛行場というのは現在のバリ国 際空港(グラライ空港)のことだ。 ジャワ海ではその2月27日に両軍艦隊が雌雄を決する戦闘を展開した。その状況の詳細 は拙作「月明のジャワ海に没す」 http://indojoho.ciao.jp/koreg/libjawac.html がご参照いただけます。 そして3月1日に日本陸軍がバンテン・エレタン・クラガンの3カ所からジャワ島に一斉 上陸し、3月7日まで戦闘が行われてから7日夜にオランダ東インド植民地軍司令部が日 本軍に無条件降伏した。 1941年12月8日に日本との戦争状態に入ったオランダ東インドでは、ジャワ島近海 の海上交通をインド洋側に移すようにとの海軍命令がその3日後に出された。そしてその 月末には百隻ほどの艀がチラチャップ港に送られた。しかしジャワ島第四位の港が突然そ の何倍もの能力を持てるわけがない。いや、港湾機能ばかりか、陸揚げされた貨物のため の倉庫、そして貨物を各地に運び出すための鉄道の能力もすぐに追いつくわけがない。 1942年2月初めにスラバヤが日本軍機の空襲を受けた。港がメインターゲットにされ たその空襲によって、港湾荷役労働者が港へ仕事をしにやって来なくなった。防衛方針を 策定していた上層部が想像もしていなかった事態が発生して、港での滞貨はすさまじいも のになった。 チラチャップの方はそれ以前からほとんど同じような状況になっていた。港湾機能は普段 のまま問題なく動いていたが、突然増加した貨物量をさばくことができず、こちらも滞貨 の山が作られていたのだ。 1942年1月にチラチャップに入港した軍艦と商船は80隻を超えた。しかし埠頭に接 岸できたのはその中のわずか4隻だった。軍需物資の荷役が最優先されたが、そんな船も 港内滞留は半月に及んだ。ほとんどの船は6〜8週間も港内での滞留を余儀なくされた。 チラチャップに入港した米軍艦艇の一兵員は、異常な混雑と非能率のこんな港にはとても 我慢できないと書き残している。[ 続く ]