「インド洋の時代(13)」(2024年09月04日) しかしそれにも増してチラチャップに起こった大混乱は、人間の大波がジャワ島全土から 押し寄せてきたことに起因していた。2月半ばごろにはオランダ東インド政庁が立てたオ ーストラリアへのエクソダス方針が動きはじめた。ファン モーク東インド副総督が2月 20日にチラチャップにやって来て、政庁高官たちをオーストラリアへ脱出させる指揮を 執りはじめたのである。 東インド評議会の指導的立場のひとびと、行政機構の総局長クラス、中央銀行官房長官、 KPMシンガポール支店長などの要職についているひとびとが3月2日の出航船でオース トラリアに送り出された。 かれら上層階級のひとびとはチラチャップ市内のホテルベルビュー(現在のホテルウィジ ャヤクスマ)に泊まり、下っ端は学校や教会、大きい建物、あるいは広場にテントを張っ て泊まった。 2月末ごろにはチラチャップに向かう街道で、数珠繋ぎになったジープやトラックなど大 小の自動車があわただしく通過する現象が終日見られた。鉄道駅にも列車が続々とやって きて、トランクを手に提げたひとびとが後から後から町に流れ込んだ。いつもは流行ファ ッションに身を包んでさっそうと動いていた白人女性たちが薄汚れてシワになった衣服を 着て憂鬱な表情で子供の手を引いている姿が地元民の印象に残った。Bendigdo, Zaandam, Khoen Hoaなどの大型船がそんなひとびとをチラチャップからオーストラリアに運び去っ た。 2月27日には15機を超える日本軍用機の編隊がインド洋上空を飛び始めた。空襲の恐 怖が既に現実のものになったのである。そんな状況にもかかわらず、夜になってから23 隻のオランダ船がチラチャップ港を出た。それと入れ替わるように4隻がチラチャップ港 に入った。そのあとまた7隻が脱出者を運ぶために港に入った。そのうちの1隻だけはイ ギリス人と武器弾薬をコロンボに運ぶ船で、他の船はすべてオーストラリア向けだった。 ジャワ島から脱出者を運び出そうとする組織的な努力は3月3日まで続けられたようだ。 米海軍の艦艇もその中に混じっていた。その乗組員が脱出の指揮を現場で執っている役人 に尋ねた。「何人がこの船に乗る予定?」「1千5百人だ。」そのアメリカ人は唖然とし た。「この船には120人しか収容できないよ!」 チラチャップを出た脱出船がすべて無事に目的地に到着できたわけでもない。ザアンダム 号ともう一隻がフリマントルに向けて航行中に日本の軍艦に遭遇し、そしてあっと言う間 に砲撃を受けて沈没した。チラチャップ港を出た後、オーストラリアにもコロンボにも到 着せず、航行中に音信不通になった船が11隻あったと報告されている。 一方、別のイ_ア語記事によれば、2月27日にチラチャップを出た25隻の船のうち1 2隻がオーストラリアに無事到着したそうで、つまり13隻は沈められたということらし い。また3月4日以降も個人ベースでオーストラリアへ脱出する動きは続けられていたよ うだ。9人の連合国軍人が小さいヨットで3月7日にチラチャップを脱出し、4月18日 に西オーストラリアの海岸にたどり着いた話が伝えられている。[ 続く ]