「インド洋の時代(終)」(2024年09月05日)

エクソダスは海だけでなく空からも行われた。空の場合は必ずしもチラチャップから飛ぶ
必要性がない。空軍関係者やそれと近い関係を持っているひとびとはチラチャップへ行か
ないでも、自分の住んでいる場所に近い飛行場から脱出することができたはずだ。チラチ
ャップで行われたものは、既にそこに集まって来たひとびとを空路運び出す努力だったと
いうことなのだ。

その努力のために、カンタス航空やブリティッシュエアウエイズが旅客機を送り込み、オ
ランダ空軍や米国空軍、そしてオーストラリア空軍も大型機を動員して脱出者を運んだ。
西オーストラリア州北部にあるブルーム飛行場に、14日間で7〜8千人の脱出者が到着
した。57機がその輸送に従事した。

どの飛行機も、乗客を全員下ろし、給油がなされると、みんな慌ただしくチラチャップに
戻って行った。食事をする時間などありはしない。地上で行われるべきことが行われてい
る間にパイロットたちは適当に何かを食べ、出発準備が完了したらすぐに操縦席に乗り込
む姿が普通のものになった。中にはまったく休憩を取らないで84時間もその往復任務を
続行したツワモノもいた。


1942年3月5日(木)、チラチャップのオランダ統治行政は風前の灯火となった。午
前9時ごろ、日本軍の飛行機が東から港の上空に飛来して爆弾を投下しはじめた。目標に
されたのはバターフ石油会社の石油精製施設、メクソリー・オルヴァードのヤシ油製造工
場、港湾労働者の集団宿泊所三軒などだ。集団宿泊所では一軒に50人くらいの労働者が
寝泊まりしていた。

日本軍地上部隊はチラチャップの北にあるサンパンの町を通過してチラチャップに進軍し
て来た。3月1日にクラガンに上陸した坂口支隊がそれだ。ジャワ島進攻3上陸地点の一
番東側に当たる中部ジャワ州ルンバン県クラガン海岸に上陸した第48師団はスラバヤへ、
坂口支隊はチラチャップに向かった。

スラユ川に陣取っていたチラチャップ防衛の東インド植民地軍と坂口支隊との間で散発的
な戦闘が起こったものの、植民地軍にはほとんど戦意が見られなかった。チラチャップ市
内の鉄道駅も日本軍の攻撃で破壊されたという情報がイ_ア語記事の中に見られたのだが、
日本軍地上部隊とチラチャップ防衛軍との市街戦は、上述した情報に従うとほとんど行わ
れなかった印象が濃い。鉄道施設の破壊は空爆による被害だったのだろうか?

チラチャップに対する日本軍の空襲は4・5・6日の三日間しか行われなかった。チラチ
ャップの防衛軍司令官はオランダ東インド植民地軍司令部が日本に無条件降伏した知らせ
を受けて、3月8日朝に白旗を掲げた。チラチャップに日本軍政が敷かれた。

日本軍はプンダム要塞を無血占領してチラチャップ防衛隊司令部にした。3年半が経過し
て1945年の日本の敗戦が確定した結果、チラチャップ港は連合国軍の管理下に置かれ、
それを引き継いだオランダが統治者の座に復帰した。

しかし、オランダがインドネシアの国土に対するインドネシア人の主権を承認したことに
よって1950年からインドネシア国軍がプンダム要塞を使うようになったが、1965
年を最後にしてこの要塞は使われなくなった。現在この要塞はチラチャップの町の観光ス
ポットのひとつになっている。


今、ジャワ島の大型港として名前が挙がるのはジャカルタのタンジュンプリオッ港、スマ
トラ島との渡海航路港になったムラッ港、スラバヤのタンジュンペラッ港、スマランのタ
ンジュンマス港、昔のジャカルタ港だったスンダクラパ港、バリ島との渡海航路港になっ
たバニュワギのクタパン港などであり、チラチャップのタンジュンインタン港の名前はジ
ャワ島の有力港の中になかなか登場しない。

ジャワ島四大港のひとつという地位は植民地統治の中で政策的に生み落とされたものでし
かなかったということなのだろう。ジャワ島南海岸部の昨今の様相を眺めるなら、インド
洋の荒波をかきわけてやってくる大型船の影はあまり濃くないように見える。その代わり
に盛んに目に映るのはサーファーたちの姿ばかりのようだ。[ 完 ]