「ムラユの大河(7)」(2024年09月04日) ムシ河はパレンバン市の南部に西から入ってきて東に抜ける。市内に入る辺りの川幅は5 百メートルくらいに達するものの、市内では3百メートル前後に狭まる。そして市内から 離れる辺りまで来ると川幅はまた広がり、広い場所では1キロを超える。そこから海岸ま でのおよそ75キロの沖積平原をムシ河は滔々と流れ進むのである。 市内のムシ河は数えきれないほどの船が行き交い、石炭などの資材を山のように積んだ巨 大なバージがタグに引かれて通行する。地元民がケテッと呼んでいる小さい艀も右往左往 して河を走る。かつてのパレンバン市内はムシ河の沖積平原が作った小さい川が縦横に走 る水の都だった。 オランダ人が1819年にはじめて作ったパレンバンの地図には百を超える川が描かれて いた。それを見たウォルターベークとムンティンゲが「東のベニスだ」とため息をついた そうだ。別のオランダ人はパレンバンを20の島の町と表現した。大きめの川で区切られ た、小川をたくさん持つ島が20あるとかれは見たのだろう。 パレンバンという名称の由来にはいくつかの説がある。黄金採掘を意味するmelimbangが なまったものという説。中国の大臣だったPai Lian Bangがスリウィジャヤの王宮に仕え て王国のアディパティを務めたころ、スリウィジャヤの民衆がパイリエンバンをパレンバ ンと呼んでいたのにちなんでそれが町の名称に使われるようになったという説。窪地を意 味するlembangに地名を示すpaが添えられたものという説。 スリウィジャヤ王国は東南アジア最大規模を誇る海洋仏教王国を築き上げた。その王都が パレンバンだったと言う説が有力ではあるものの、広大なエリアを何百年にもわたって支 配した大国が最初から最後まで王都を一カ所にしか持たなかったという考えを絶対視する のは思考の柔軟性を欠く振舞いにならないだろうか。 王都が複数作られた上に時期によって最高権力がその間を移動するようなことが起こる可 能性を前提から取り除いてしまうような思考方法は偏向しているかもしれない。パジャジ ャラン王国がそんな実例を示しているではないか。よしんば義浄が描いた都市がパレンバ ンでなかったとしても、それは義浄の言う室利佛逝がパレンバンでなかったことを意味し ているにすぎないのであって、別の時期に別の人間が書いた室利佛逝もパレンバンでない という否定の根拠にはできないだろう。パレンバンがスリウィジャヤの王都になったこと がないとは言えないのではあるまいか。 パレンバンのブキッシグンタンで発見されたクドゥカンブキッ碑文は、スリウィジャヤ王 国が西暦682年に今のパレンバンに王都を置いたことを物語っている。スリウィジャヤ は9世紀にヌサンタラとマラヤ半島を支配下に置いて、強大な覇権を打ち立てた。しかし インドのチョーラ王国の侵攻によってその覇権はチョーラの傘の下に入ることになり、そ れ以後、スリウィジャヤ王国は相変わらずその名前で支配権を振るっていたが、中身はチ ョーラ王国に操られる人形に変化した。 1178年に趙汝[辻-十+舌]Zhao Ruguaが著した諸蕃志Chu Fan Chiに登場する巴林馮は パレンバンを指していると見られている。現代中国語ではパリンフォンという発音になる が、中古音だとパリンビュンという音だそうで、やはり原音のパレンバンという音に近い ものになっている。 Kidung PamachangahやBabad Arya Tabananに記された物語によれば、クディリ王国がパレ ンバンに置いたブパティのアルヤダマルは1343年にマジャパヒッのガジャマダが行っ たバリ島進攻にパレンバン軍を率いて参加している。 トメ・ピレスは1513年ごろのパレンバンについて、統治者はジャワから派遣されたパ ティであり、マラカを征服したポルトガルを追い出すためにドゥマッがジャワの諸都市を 糾合して水軍大戦隊をマラカに送ったとき、パレンバンの水軍もそれに参加したと書いて いる。 パレンバンダルッサラムスルタン国が成立したのは1659年だった。しかしそのスルタ ン国は1823年に滅亡してパレンバンはオランダの直轄都市になった。[ 続く ]