「ムラユの大河(8)」(2024年09月05日) 繁栄するパレンバンの街にはアラブ人もやってきて居住した。パレンバンのカンプンアラ ブは13世紀に設けられたと見られており、現在も昔のままの姿で生き残っている。一方、 市内中心部のアンペラ橋近くにはカンプンカピタンもある。これはオランダ時代に設けら れたカンプンチナを統率したカピタンチナの邸宅を中心にする地域だ。 アンペラ橋の北岸一帯には古い建物がたくさん残されており、イリル16市場の一帯は古 色蒼然たる昔の建物が軒を連ねている。パレンバンがオランダ直轄領になってから建築さ れたものだから、2百年は経っているだろう。オランダ人好みの広い窓とルーバー付きの 窓板がそれを明瞭に示している。この地区はインドネシア独立後に家内工業の産業センタ ーになり、そのために地域はスラム化して行った。 橋の西側にはクトベサッ要塞やマッムッ・バダルディン2世博物館がある。その地域は昔 パレンバンスルタン国の王宮と王族の住居群があった場所で、マッムッ・バダルディン1 世が王宮の守護のためにクトラマ要塞とクトベサッ要塞を建てた。ところがオランダ政庁 がスルタン国を滅ぼして直轄領にしたあと、1823年にクトラマ要塞が取り壊されて1 825年にオランダ人初代レシデンのIJセヴンホーフェン公邸に建て替えられた。それが 現在のマッムッ・バダルディン2世博物館だ。 歴史の香りを漂わせている住居・墓地・中国寺院・教会などの建築物はほかにもあちこち にある。オランダ時代のインディ様式、パレンバン独特のリマス屋根、高床式住居などさ まざまな形態の住居が随所に散らばっている。しかしスリウィジャヤ時代以来の、筏の上 に建てられた住居は減少の一途をたどっている。パレンバンスルタン国の時代は華人がそ の水上家屋に住んだ。しかし今日まで残っているものは少ない。残っているものは個人の 住居、倉庫、ワルンなどに使われている。 1990年にマッムッ・バダルディン2世博物館の敷地で考古学発掘調査が行われ、その 一帯の地層は深く掘れば掘るほど古い時代の相を見せてくれることが明らかになった。今 の地表から5メートルほど下に中国の唐時代に作られた陶磁器の破片が埋まっていたのが 見つかっており、スリウィジャヤ時代の地表面がそのあたりだったことがわかる。市内西 部のカランアニャルから東部のサボキンキンにかけての一帯は古代から人間の生活領域に なっていた可能性が高いと考えられている。 パレンバンスルタン国時代の王宮周辺はその時代の政治経済文化の中心地であり、その名 残はいまだに感じられる。古い建物を背景にしたイリル16市場、道路をはさんで向かい にあるパサルトゥンクルッ、大モスクそしてクトベサッ要塞。 クトベサッの船着き場では対岸や別の地域へ行く船を待つひとびとが荷物を傍らに置いて 駄弁っている。午後遅い時間のアサル時になると、その船着き場にワルンコピがやってく る。さすがパレンバンの移動ワルコップはグロバッでなくて船なのである。一隻の船の中 にイスとテーブルを並べ、調理台を用意し、客は船に乗って飲食品を注文する。川面を流 れる夕風を身に受けながらできたてのコーヒーとンペンぺ・ピサンゴレン・タフゴレン・ バッワン・テッワンなどを楽しむのは庶民にとって格別の命の洗濯だろう。価格もお手頃 ときている。日が落ちればアンペラ橋の街灯が川面に照り映えてロマンチックさはいや増 すばかりなのである。 このワルンコピボートのビジネスを行っているのはハルンさん47歳で、所有する6隻の ワルンボートは4隻が飯屋、2隻がコーヒーを商い、飯屋はイリル16市場、コーヒーは クトベサッを定常拠点にしている。 対岸にも水上ビジネスがある。対岸の方はもっと金に余裕のある階層を対象にしており、 水上家屋がレストランやカフェあるいはカラオケ店として使われている。水上家屋を用意 して民間にそこでビジネスを行わせているのはパレンバン市庁だ。[ 続く ]