「ムラユの大河(9)」(2024年09月06日) 長さ1.1キロのアンペラ橋は1962年4月に着工されて1965年5月に竣工した。 ムシ河に橋を架けるアイデアはオランダ時代の1906年に既に出されている。その実現 のための具体的な動きを1924年にレシデンのルコック デヴィルが起こしたものの、 実現しないままかれの任期が終わって立ち消えになり、そんな状態の中で日本軍の到来を 迎えることになった。 1956年になって州議会・州知事・地方軍管区司令官・市長が連名で中央政府に提出し た架橋要請書をスカルノ大統領が重視し、大統領のお声掛かりでこの架橋計画が実現に向 かって動き出すことになった。 1961年12月に建設会社との契約が締結され、総工費450万米ドルは日本がインド ネシアに支払う戦争賠償金を充当することになった。橋のデザインも日本人建築家が設計 した。その意味で、このアンペラ橋はジャカルタのホテルインドネシアやサリナデパート 店と同列に並べることができるように思われる。 この橋が開通したとき、パレンバンの民衆はスカルノの名前を橋の名にすることを望んだ。 その実現に最も貢献したのがかれだと理解されたからだ。そのため、1966年にアンチ スカルノ政権が誕生するまでその橋はブンカルノ橋と呼ばれた。 G30S事件の責任がスカルノにあると規定したオルバ政権は、公共施設にスカルノの名 前が使われることを許さなかった。そして橋の名称はAManat PEnderitaan RAkyatを短縮 したアンペラに変更されたのである。最初はスカルノの偉業を示す象徴とされたこの橋は、 一転してスカルノが元凶になった「民衆苦難」の声を語る橋にされた。人間世界の毀誉褒 貶のすさまじさをこの橋は黙して見つめているようだ。 この橋は幅22メートルの4車線道路であり、橋の中央部は船を通すために上下可動する ように設計された。長さ75メートルの可動部を吊り上げるための高さ63メートルの塔 がふたつ立てられていて、それがアンペラ橋の姿をユニークなものにしている。可動部は 水面から63メートルの高さまで吊り上げることができるそうだ。この橋の下のムシ河の 川幅は3百メートルほどしかない。 橋の道路部下端と水面との距離は、水が低いときで11.5メートル、高いときは8メー トル。しかしその可動部が最後に動いたのは1973年のことだった。その年に可動部を 動かさないことが定められて吊上げ塔はお役御免になったのである。 コンパス紙記者は2010年にその塔に登ってみた。その塔にはだれでも登ってよいこと になっているのだが、60メートル上の展望台まで行くのに230段の階段を徒歩で上が り下りしなければならないのだから、「ちょっと登ってみようか」という気になるひとは なかなかいないだろう。 40年近く使われていないために塔の内部は汚れてきたなく、ゴミも散らばり、また照明 もうす暗い。最上部の展望台はガラス張りになっているものの、ガラスも透明感が失われ、 何カ所かひび割れがある。水の残った飲用水ペットボトルや紙くずがそこかしこに落ちて いる。ベンチが転がり、床の端には草が生えている。壁にはアンペラ橋のスペックを説明 する掲示板がかかっている。もちろんインドネシア語で書かれているのだが、旧綴りだか ら現代っ子はそれをまるで外国語のように思うだろう。言うまでもなく、それはこの橋が 開通したときの公式綴りだったのだが。 記者は塔の屋根に登った。階段がないために直径60センチのドラム缶と綱を使ってなん とか登ることに成功した。そしてその苦労が報いられた。パレンバン市内と周辺地区が一 望のもとに眺められ、はるかかなたからムシ河が市内に入ってくる風景がまぶたに残った そうだ。 河の南岸にあるスリウィジャヤ肥料の工場、船着き場、モール、ホテル、大モスク、パレ ンバン市庁社などが見え、対岸にはプラジュのプルタミナ精油所、グロン川、コムリン川、 スリウィジャヤスタジアム、バトゥラジャセメント工場、オガン川などが遠望できた。 [ 続く ]