「ムラユの大河(10)」(2024年09月09日)

アンペラ橋北岸から4キロほど西に海抜30メートル程度の小さい丘がある。平坦なパレ
ンバンの地形の中でもっとも高い地点だ。今では、広がったパレンバン市街の西のはずれ
という印象の地の利だが、かつてスリウィジャヤ王国時代には王都の中心的役割を果たし
ていた。そこにはスリウィジャヤ王家の墓地があり、大きい仏教寺院が建立されて仏教社
会の暮らしのセンターのひとつとして機能していたのだ。それが今日までもムラユ人のル
ーツのひとつと目されているBukit Siguntangだ。

マラヤ半島のプーリスPerlisで書かれたムラユの諸王についての古い書物には、タタン河
の河口に町ができ、それが後にパレンバンと呼ばれるようになったと記されている。さら
にそのタタン河上流にムラユ河が流れ込んでいて、その合流点に近い場所にブキッシグン
タンという丘があることも述べられている。そのシグンタン丘から3キロほど南東にカラ
ンアニャル遺跡があり、スリウィジャヤ王国時代にそこは住宅地区であったと考えられて
いる。

西暦7世紀以来、ブキッシグンタンは仏教徒の聖地のひとつに数えられていた。そこには
仏教寺院が建てられ、9世紀には高さ2.77メートルの大理石造りの仏像が置かれた。
そのレプリカがシグンタン丘の麓にある博物館のコレクションになっている。その他にも
さまざまな仏像あるいは碑文やストゥ―パの破片など、パレンバンで出土した遺物を博物
館で見ることができる。

博物館に収蔵されている仏像の中に、紀元2〜5世紀に南インドで発展したアマラワティ
様式のものがたくさん見られるものの、それらのほとんどはインドからの渡来品でなくて
地元で作られたものだ。というのも、当時バンカ島で大量に産出した大理石が素材に使わ
れているからだ。ストゥ―パは砂岩とレンガで作られている。


ジョホールスルタン国の大臣トゥン スリ ラナンが1612年に著したスララトゥスサラ
ティンと題するムラユ史の中で著者はブキッシグンタンを、ムラユ人の祖先が発祥した聖
地であると書いている。

「イスカンダル・ドゥルカルナインの子孫がマハメルのブキッシグンタンに降臨したこと
はあまねく世に知れ渡っている。よって降臨した王にあらゆる国のあらゆる王が会って平
伏するためにやってきた」という文はシグンタン丘の麓で1928年に発見された石碑に
刻まれているものであり、それはパッラワ文字で書かれた古ムラユ語の文章になっていた。
その石碑は今、シグンタン丘にほど近いスリウィジャヤ王国古代公園に置かれている。公
園に置かれた石碑に古ムラユ語パッラワ文字で書かれた「王と2万人の兵士が丘の麓に居
住地を拓いた」という記載が西暦683年の年号と共に記されているのだ。古代公園の中
を運河が流れ、その運河はチュンパカ島をかすめてムシ河につながっている。


スリウィジャヤ王家の墓地ではシグンタルアラム王、バトゥアピ王子、クンバンダダル姫、
ランブッスラコ姫、さらには当時大きい功績をあげた軍司令官、トアンジュンジュガン、
バグスクニン、バグスカランたちたちの墓碑を見ることができる。

現在のシグンタン丘は緑に包まれた静謐な丘であり、オランダ直轄領の時代にオランダ人
はこの丘を代表的なピクニックの目的地にしてきた。その伝統が残されて、いまだにパレ
ンバン市民にとっての代表的行楽スポットのひとつになっている。[ 続く ]