「インドネシア語正書法(1)」(2024年09月09日)

日本語の完結・完成や完全無欠を意味しているインドネシア語のsempurnaが動詞化されて
menyempurnakanになると、sempurnaという状態に向かって進行中のポジションにあるとい
う意味が第一義になる。進行中の状態が終わって完結・完成の状態に達したという意味は
第二義なのである。つまり第一義がsedang disempurnakanであり、sudah disempurnakan
は第二義になるということだ。文中のこの暗意の確定は文脈に従うことになる。

1972年にインドネシア共和国政府が国語インドネシア語の正書法を変更したとき、そ
の新たに定められた正書法に Ejaan Bahasa Indonesia yang Disempurnakan 略称EYDとい
う固有名称が与えられた。はて、これはこの先まだまだmenyempurnakanの努力が続くこと
を意味しているのか、それともこれがもう完全無欠のものであり、この先の変更はありえ
ないことを語っているのか?

実際にはその後も完成に向けての努力が続けられているから、2024年に生きているわ
れわれは現実の意味をもう知っている。しかし1972年にその名称を採択したひとびと
の意識はどうだったのだろうか?

人は死すると本人がその言に込めた想念も消えてしまうものだが、その一方で言葉そのも
のだけは残るのである。本人の想念など知ることもできない後世の人間がまるでその現場
に立ち会ったかのように得々とその内容を解説している姿は世界中でもうおなじみのもの
だろう。常識と化したそんな解説を信じているように装わなければ社会生活で自分の立場
が不利になるような世界に住んでいるわれわれの不幸感覚ははたして、もうおなじみにな
っているだろうか?


このEYDという言葉の日本語訳を試みたひとはきっと悩みに悩んだに違いあるまい。そ
して最終的にはイ_ア語日語辞典に書かれている対応語に向かって逃避せざるを得なかっ
たのではないだろうか。日本語では拡張スペル、完成スペル、改善スペルなどと翻訳され
ているらしいが、英語では「改良インドネシア語正書法」というような表現になっている
ようで、そこを見る限りでは日本人のほうが圧倒的に言語記号論を信奉しているように思
えてならない。

言葉そのものの意味ニュアンスよりも、その言葉で示されている内容そのものに意識や関
心を向けるあり方を基本姿勢に持つ場合、完成スペルであろうがどんな日本語であろうが、
その言葉がEYDを指しているのだということさえ理解されればそれで済んでしまう。要
するに訳語がひとつの固有名称あるいはシンボルにされてしまうわけだ。

しかしそんな姿勢を取る人間にとっては、意味を積み重ねて論理を形成する作業が困難に
なるのは確実だろうと思われる。なぜなら、言葉自体が持っている定義された意味とその
語法が培った含意に焦点を当てる力が育たなくなってしまうのだから。それは言葉の扱い
におけるマキアヴェリズムでしかなく、言葉を研ぎ澄まして一刺しで相手を葬ろうとする
必殺アートの精神がマキアヴェリズムに呑み込まれてしまえば、言葉はそんな姿勢の中で
生命力を失うことになりかねない。

日本語の論理構造が欧米諸語から遅れを取っているというのが事実であるとするなら、そ
れを言語の責任に帰するよりもその言語を扱っている人間の性向の方がより深い位置でそ
の問題に影響を及ぼしている可能性を推測するべきではないかという気がわたしにはする
のである。それはそれとして・・・ [ 続く ]