「インドネシア語正書法(2)」(2024年09月10日) 行政が作り出す産物において、古いものに変更が加えられたとき、一般的に使われている のは改定という言葉ではないかと思われる。インドネシアでもその点は同様で、憲法改定 や法律改定に関してはperubahanが使われるのが普通であり、改良・改善・改正などとい う主観的な言葉は慣用性を持っていないように見える。もちろん、ある法律に関して大臣 が「(欠点があるから)menyempurnakan/memperbaikiしなければならない。」と発言する のはかれの主観の範囲内のことであり、それをとやかく言うことは起こらない。 しかし改定された法律の文中にその法律が前のものをmenyempurnakanしたりmemperbaiki したものであるなどとは書かれないのが普通ではないだろうか。第三次改定憲法と言う場 合のインドネシア語はあくまでもuud perubahan ke 3となっているのである。だから国語 行政が出してきた新しい正書法を「完成されたもの」などと呼んで自画自賛しているあり さまは、為政者の姿勢がちょっと危なっかしいものに感じられるわけだ。 それもそのはずで、オルバ政権というのはそういうレジームであったのだから当然のこと と言わざるを得ない。ひょっとしたら、この語法もオルバ術語のひとつだったのかもしれ ない。menangkapと言わずにmengamankanと言い、penaikan hargaをpenyesuaian hargaと 表現し、軍隊などの組織構成員が反社会的な行為を行ったときにそれをoknumと呼んで組 織責任を個人責任にすり替えることがオルバ時代に行われていた。バハサオルバと呼ばれ ているものがそれなのである。 EYDという改良正書法はインドネシア語の綴り方をかつてのオランダ語式のものから英 語式のものに近付ける内容になっていて、インドネシア語の国際化という側面が強く意識 されたように解釈できる。非母語者のイ_ア語学習にも、インドネシア人の英語学習にも、 便宜を与える効果はたっぷり期待されていた。 インドネシア語の綴り方の歴史を概観することでEYDの内容と位置付けの理解がより明 瞭になるだろうから、史的概略をまず見てみることにしよう。西暦1900年まで、オラ ンダ東インドに原住民の言葉をアルファベット表記する際の綴り方に関する統一的標準は 存在しなかった。 とはいえ、たとえそれが存在しなくとも、報告書や日誌に書かれるオランダ語文の中に東 インドの地名や人名が表記されなかったはずがない。オランダ人は耳に聞こえた音の羅列 をアルファベットでオランダ語文の中に書き記した。当然、個人差が発生した。たとえば アンケという地名は現代の正書法でAngkeと綴られるのだが、歴史の中のオランダ人たち はAnckee, Anke, Ankeeなどと書き残したのである。 1628年9月にバタヴィア城市がマタラムのスルタンアグンの軍勢による包囲攻撃を受 けたとき、ホランディア要塞が陥落寸前の危機に至った。そのとき要塞守備隊のハンス・ マデレン軍曹が要塞の石垣によじ登って来るマタラム兵に糞尿を浴びせかけた話が17世 紀に物語本になってヨーロッパに出回った。糞尿を浴びたマタラム兵たちは即座に石垣を 下って水たまりを探し、水の中に跳び込んだそうだ。糞尿は敵弾よりも怖ろしいものだっ たのだろう。 オランダ人旅行家ヨハン・ニューホフが1669年に発表した旅行記の中に、そのときの ストーリーが収められた。そしてかれはマタラム兵が叫んだ意味不明な言葉を書き残した のである。いや当然かれ自身はその意味を調べて知っていたはずだ。マタラム兵はこんな 叫び声を上げたのだ。「O, seytang orang Hollanda de bakkalay samma tay!」 これが世界で最初にアルファベット表記されたムラユ語だったとされている。この文をE YD表記するとこうなるそうだ。「O, setan orang Belanda berkelahi sama tahi!」 ムラユ語アルファベット表記に正書法など存在しない時代だったから、こんな現象が起こ ったのである。[ 続く ]