「インドネシア語正書法(3)」(2024年09月11日) オランダ東インド政庁がムラユ語(とジャワ語:ジャワ人のための準標準言語)を東イン ド植民地の標準言語にする意図を持って定めたアルファベットによる正書法が1901年 から法制化されて、インドネシアの全土で使われるようになった。政庁は西スマトラ州ソ ロッ生まれでイスラムと社会学の研究者であるCharles Adriaan van Ophuijsenに正書法 の編纂を命じ、それをもって現地語の標準綴りにした。 アルファベット26文字は基本的にオランダ語の音素に当てはめれらており、インドネシ アの諸言語にある同一音素は必然的にオランダ語と同じ綴りで書かれることになった。オ ランダ語で使われない音素はオランダ人の目から見て妥当性を持つものにされている。 このファン オパイゼン綴りは無傷で日本軍政期を乗り越えたものの、1947年にほん の僅かな変更を受けた。日本軍政はインドネシアの中に築かれていたオランダを憎み、オ ランダ語の地名や公的な名称を軒並みインドネシア語や日本語のものに替え、街中に建て られていたオランダ風の像や記念碑をぶち壊したというのに、インドネシア語の綴り方が オランダ風になっているにも関わらず、それには一切手を出さなかった。 1947年に行われた綴り方の変更というのは、1947年3月17日からスタートした Ejaan SoewandiあるいはEjaan Republikと呼ばれた正書法で、その時の教育文化大臣の名 前を取ってスワンディ綴りと命名された。スワンディ綴りはオランダ植民地時代に使われ ていたEjaan Van Ophuijsenをインドネシア人に使いやすいように改良したものだった。 オパイゼン綴りのoeがuに、ハムザと呼ばれる咽喉閉塞音が ’からkに、畳語に2を使うと いった程度の変更だけが行われて、メインは相変わらずオランダ式のものが継続された。 インドネシアのスーパーマーケットに入ってスパイス類の棚にkoepoe-koepoeというブラ ンド名の書かれた小瓶がずらりと並んでいるのを目にし、唖然とした読者はいらっしゃら ないだろうか?いまkupu-kupuと書かれるようになっているその言葉は1947年までそ のように綴られていたのである。これはスワンディの功績だ。 完全独立後も二十年以上続いていたオランダ式綴り方への絶縁状がEYDだった。世界文 明の覇者が使う言語が世界中の隅々にまで浸透していくありさまを、世界中のひとびとが 見守っていたのである。そしてその姿が一層顕著になっていくにつれて、インドネシアで も世界の言語の未来像に対する認識が一方向にまとまるようになっていった。 これには、1954年にメダンで開催されたインドネシア語コングレスという伏線がから まっており、EYDの誕生はむしろその伏線が主導力となってその結末を迎えた面が強い のだが、いずれにせよインドネシア語の未来像はそれらの両面が合体した形で形成され、 強い力でその方向に推進して行ったことになる。 スワンディ式でも依然として続けられていたファン オパイゼン式の綴り方はEYDで次 のように変更された。 /tj/ tjantik → /c/ cantik /dj/ djalan → /j/ jalan /j/ jang → /y/ yang /nj/ njonja → /ny/ nyonya /sj/ masjarakat → /sy/ masyarakat /ch/ chusus → /kh/ khusus それ以外にも大文字小文字イタリックの使い分け、語根・派生語・畳語・複合語・接辞・ 前置詞・短縮語・アクロニム・句読点などの表記方法に変更が定められた。 1972年のEYD確定によってオランダ式表記は息の根を止められ、代わって英語式表 記に近いものがインドネシア語の標準表記法になった。言い換えるなら、1972までイ ンドネシア語のマスメディア・文学・公文書などはすべてファン オパイゼン綴りで書か れていたのである。そのオランダ式綴りになじめないひとは昔書かれた文書を読む気が起 こらないかもしれない。文章自体は現代インドネシア人にも十分理解できるムラユ語で書 かれているというのに。[ 続く ]