「インドネシア語正書法(4)」(2024年09月12日)

1972年8月16日にスハルト大統領は国政方針演説の中で、翌日からのEYD施行開
始を表明した。施行プログラムについては優先分野を定めて段階的に新綴りへの移行プロ
セスを振興させる計画が組まれており、まず公的機関の文書作成や通信、法規条文、次い
でマスメディアの記事や論説、そして最終的に全国民が新綴りに移行するというスケジュ
ールが案内された。

このEYD変更政策の準備中に国民からの反対の声が政府に投げかけられていた。政府が
この政策を公式に記者発表したのは8月3日だった。インドネシア語の国際化を支持する
ひとびとはもちろん賛成の声を上げたものの、反対者も広範に及んだ。記者発表後に反対
者の声がトーンアップしたとはいえ、そんなもので決意を揺るがせるスハルト政権ではな
いのだ。2週間後に政策は予定通り開始された。

学術界の長老たちが何人も反対を表明し、全国学生行動ユニットが国会・教育文化省・国
家開発企画庁・国家官房を訪れて「断固反対」を叫んだ。反対者の表明した理由は、学術
用語、保健衛生やスポーツの用語の綴り方に混乱が起こるというものや、マレーシアの綴
り方にインドネシアが追随するようなことをしてはならないといった意見が主体を占めた。
変化を好まない人間はいつでもどこでも出現するものだ。

オルバ政権の心髄はそんな反対の声に耳を貸す気を毛頭持っていない。政府要人は「こん
な軽くて小さな問題をとやかく言って反対する必要性はない。もっと重い問題ですらわれ
われは自分を適合させてしのいでいるではないか。こんな綴り方のような軽い問題にこだ
わらなくてもよい。」と発言して、反対を唱える一部国民の姿勢を批判した。


1954年にメダンで開催されたインドネシア語コングレスは時の教育指導文化大臣モハ
マッ・ヤミン氏が抱いた、混乱しているインドネシア語の諸問題に対する危機感を踏まえ
たものであり、特に綴り方・文法・術語作成に焦点が当てられた。綴り方については、で
きるかぎり一文字一音素という原理でオランダ式綴り方を変更することが決議され、その
検討作業を実施する行政機関が設けられることになった。そしてインドネシア語綴り刷新
委員会が発足して作業が開始されたのである。

プリヨノ博士とカトッポ氏が率いる委員会は3年後に刷新案を献策した。一方、それとは
無関係にまったく別の場で、ムラユ語の統一を希望するムラユ人の国家が連合して言語の
統一化と標準化を図る動きが沸き起こった。マレーシア・シンガポール・ブルネイダルッ
サラムの三国とインドネシアがムラユ語の統一化と標準化のために同じテーブルに着いた
のである。

広域ムラユ語の語義と綴りをそろえて、どこの国へ行っても同一の単語として認識される
ようにするのがこの企画の目的だった。インドネシア語綴り刷新委員会の用意した新案が
他の三国との検討会のテーブルに載せられ、インドネシアではこの国際検討会の討議内容
に関する作業を行う委員会が1967年に発足した。

そんな紆余曲折の結果、インドネシアは1972年に広域ムラユ語構想にも合致する内容
を持たされたEYDの国内施行を開始したのである。


オランダ式からイギリス式への音素変更が引き起こした庶民の当惑はジャ行・ヤ行の綴り
の読み方に最も重くのしかかったのではあるまいか。つまり焦点が/j/の文字をどう読む
のかということに絞りこまれた印象がある。

英語はJapanと書いてジャパンと発音するのだが、オランダ語ではJapanと書いてヤパンと
読み、蔑称Japをヤップと言った。ところがヌサンタラの諸語にはポルトガル語源のジャ
パンの音が入ったためにインドネシア人は昔から日本をジュパンと呼んでいた。その結果、
オランダ植民地時代に入ってもジュパンが続けられ、最終的にファン オパイゼン式正書
法でDjepangと書かれるようになった。オランダ人がいかにヌサンタラのプリブミにオラ
ンダ語を「使わせない・学ばせない」ようにしていたかがこの一事からも解る。

EYDでDjepangはJepangに切り替わったのだが、それになじめないインドネシア人がオ
ランダ語風にヤパンと言っていた例があったそうだ。ただし文字を読んだ結果それが正し
いと考えて発音したのか、それともめんどくさいからそんなプロセスなしにそういう行動
を取ったのかはまったく判らない。[ 続く ]