「ムラユの大河(14)」(2024年09月13日)

スマトラ島随一の長江バタンハリの流域に遠い昔から人間の居住がなされていた形跡があ
る。おまけに居住者は外の世界と交易でつながっていた。紀元3世紀の漢代に作られた中
国製陶器がクリンチ山麓の遺跡から発掘されているのだ。受け渡しがどこで行われたのか
知る由もないものの、その品物がバタンハリ河を経由して山中に届いたことは疑えない。

華人の存在に関しては、ムシ河河口デルタ地帯北側のムシバニュアシン県カランアグント
ゥガKarang Agung Tengahで西暦紀元4世紀のものと見られる遺跡が発見され、そこに中
華文化の影響が見られたことから、スリウィジャヤ王国より前の時代に華人がスマトラに
住んでいた可能性が浮上している。

その後も義浄の著書内での言及、鄭和のパレンバンへの来航、パレンバンスルタン国時代
の錫採鉱事業などから、パレンバンと華人の関りはスリウィジャヤ以前から連綿と継続し
ていたことが推測できる。

華人がそんな古い時代にムシ河に来ていたのであれば、150キロほど北側のバタンハリ
河口がかれらの行動半径の中に含まれていてもおかしくはあるまい。


バタンハリ河が体験した人間世界の盛衰もムシ河に劣らないほどバラエティに富むものだ
ったように見える。オランダ時代にムシ河が体験したようなことがバタンハリ河に起こら
なかったとはいえ、地元プリブミと他のアジア人がバタンハリ河で繰り広げたさまざまな
できごとは、それを補って十分なようにわたしには推測されるのである。

バタンハリ河流域に興った王国として、古代のマラユ王国、マラヤプラ王国別名ダルマス
ラヤ王国、そしてジャンビスルタン国などの名前が挙げられているとはいえ、歴史の流れ
がすべて克明に見きわめられたわけでもない。いやそれどころか、流れが闇に包まれてい
る部分のほうがはるかに多いのではあるまいか。

一番古いと考えられるマラユ王国に関する情報は西暦7世紀にインドに赴いた義浄の著述
に頼るしかない。唐時代の仏僧である義浄はインドのナーランダで仏法を学ぶために廣東
から南洋に向かう船に乗り、西暦671年にマラカ海峡を訪れて半年間スリウィジャヤの
王都に滞在した。義浄は王都の地名を著作の中に述べておらず、室利佛逝という言葉で通
している。その漢字はSriwijayaを音写した言葉であるというのが現在定説になっている
ものの、自分が滞在した町の地名を書かずに国名を書いたことにどんな背景があったのだ
ろうか?

当時の室利佛逝にはダルマキルティという名の高僧がいて、この師に就いて仏教を学ぶた
めに各地から学生が王都に集まってきた。その王都にはるばるやってきた義浄もダルマキ
ルティに師事して仏法とサンスクリット語を学んだようだ。およそ1千人の学僧が室利佛
逝にいたと義浄は書いている。

義浄はその町に半年間滞在してサンスクリット語を訓練する傍ら、種々の仏典を学んだ。
仏教をヌサンタラ一円に広める大仏教国に発展していくスリウィジャヤは早い時代から国
家仏教の隆盛に力を入れたようだ。仏僧を養成する学校が作られ、たくさんの学生がさま
ざまな地方からやってきて仏教を学んだ。スリウィジャヤの王都は当時の国際仏教界にお
ける教育と普及のセンターのひとつだったと言えるだろう。


室利佛逝でナーランダに向かう準備を整えた義浄はその地を後にして末羅瑜洲に向かう船
に乗った。船は15日間航行して末羅瑜に着き、義浄はそこに2カ月間滞在した。このマ
ラユ洲というのはバタンハリ河デルタ地帯にできた大きな街だったと現代の歴史学者は解
説している。7世紀ごろのマラユ王国の首都はMinangaと呼ばれていたそうだが、このミ
ナ~ガという地名をジャンビ州の現代地図の中に見つけることができない。歴史資料の中
に見つかるそのミナ~ガという首都名が、義浄が末羅瑜洲で滞在した町の名前であったの
かどうかもはっきりしない。義浄は末羅瑜としか書いていないのだ。[ 続く ]