「ムラユの大河(15)」(2024年09月17日) 後の14世紀にアディティアワルマン王が王都をバタンハリ河沿いに内陸部に向かって移 動させて行き、そのダルマスラヤ王国がマラカ海峡側からバタンハリ河を遡って源流にま でたどり着いてそこに王都を構えたあと、王国はさらに西へと移ってパガルユンにミナン カバウ王国を樹立したという解説が見られる。そのパガルユンの王国がMinangkabauとい う名前になったことに関してそれはmenang kerbauの音変化であるという語源説があるの だが、かれらが祖先の地Minangaを王国名の中に読み込んだ可能性も十分に感じられるの ではあるまいか。 ミナンカバウ語のkabauはインドネシア語のkerbauだが、minangは育てるを意味するinang の派生語であり、水牛とセットになれば牛の放牧の意味が匂い立ってくる。ミナンをムナ ンに引っかけて語源解説をしたひとはミナン人だったのだろうか? マラユという地名ははるかに古い時代から既に諸外国に知られており、ギリシャではプト レマイオスがmaleu-kolonという言葉を著作の中に書いているし、インドでもゴータマ・ シダルタが生きていた時代に書かれたヒンドゥプラナの書にMalaya dvipaという言葉を見 出すことができる。 ただし、そのマレウやマラヤがミナ~ガの街を中心に置いたマラユという王国に対応して いたのかどうかはよく分からない。スマトラ島が黄金境(スワルナブミ)と呼ばれていた ころに聞こえてきた地名に異国のひとびとが飛びついた可能性がなきにしもあらずと言え ないようにも思われる。 マラユ王国の首都はMuara Teboに置かれたという説があり、それに従えば義浄の滞在した 末羅瑜の町はバタンハリデルタに作られた外港という位置付けだったように解釈できる。 しかしもしそうであったなら、国家経済にとってきわめて重要な大商港と首都ムアラテボ が150キロ前後離れていては、何かと不便だったのではないかという気がわたしにはす るのである。海岸部から遠い広大な地域を統治するために港から離れた場所に王都を置い た王国はいくつもあったが、果たしてムアラテボのケースにはそのような事情があったの だろうか? ムアラテボは内陸部のバタンテボ河とバタンハリ河の合流点にあり、丘陵になっていて現 在のジャンビ市から140キロほど西に位置している。そこから川沿いに100キロほど 上流に進むと西スマトラ州ダルマスラヤ県に達する。 一方、6〜7世紀ごろのムラユ王国の王都はMuara Tembesiにあったという説もある。ム アラトゥンブシは今のジャンビの町とムアラテボの町のちょうど中間くらいに位置してい るから、やはりバタンハリデルタから遠いのは五十歩百歩だろう。 義浄が末羅瑜洲へ行ったのはマラヤ半島のKedah国へ行くためだったという説明が見られ る。そのころ東南アジアからインドへ行く船はクダッから出ていたために義浄はクダッへ 行かねばならず、そのときクダッへ行くにはマラユから船に乗るのがかれのスケジュール にとって便利だったということらしい。 義浄の著述にも、「室利佛逝王は自分にたいへん親切にしてくれた。王はクダッへ行く自 分をマラユに送ってくれて、自分はそこで2カ月間滞在した。」という記載がある。マラ ユからクダッへの航海も15日かかり、インドへ行く船に乗ってからその30日後に船は ナガパティナムに到着した。義浄はついに念願のインドの土を踏んだのである。時に西暦 673年2月8日のことだった。[ 続く ]