「インドネシア語正書法(6)」(2024年09月17日) オランダに住んでいるわたしの友人のJossは、わたしに送って来る手紙をいつも旧綴りで 書く。旧綴りというのは1972年に政府が定めたEYDが施行される前にわが民族が使 っていたスワンディ綴りのことだ。今のわれわれはEYDのことを新綴りと呼んでいる。 ejaan lamaを旧綴りではedjaan lamaと書いた。わたしの飼い犬CipaをかれはTjipaと書く。 banyak terima kasihはbanjak terima kasih、sampai jumpaはsampai djumpaだ。オルバ レジームが特殊な意図を持ってEYDを定めたことへの疑惑をかれは抱き、オルバの奸計 への抗議を自分の行動指針に決めた。かれは何を疑ったのか? 反スカルノ政権として発足したオルバレジームは、前政権時代に書かれたあらゆるものを 歴史の墓穴に埋め尽くす意図をもって、それをシステマチック且つ完璧に行うためにイン ドネシア語の綴り方を大規模に改定したのではないだろうか。新綴りで育った新しい世代 は旧綴りの文章を読む気が起こらないだろう。かれはベネディクト・アンダーソンをはじ めとする諸思想家の考えを参照しながら、その問題を検討した。 新綴りに慣れてしまったら、旧綴りを一瞥しただけでその書き物が時代遅れで古臭いもの に感じられ、実用性のない、頭をズキズキさせるものでしかないという印象を抱かせるこ とになる。オルバレジームがオルデラマと名付けた前政府の実績や詳細な内容は国民の意 識から抹殺され、墓標の下に埋められ、国民は墓標に書かれたものだけを知識として持つ ようになる。 ジョスは言語に高い関心を持っている。英語の語彙がインドネシア語にどんどん入り込ん でいる状況にかれは心穏やかでない。Winaという都市名がどうして今はViennaとなってい るのか?ウィナのひとびとは自分の町の名前をWienと呼んでいるというのに。チェコの首 都はPrahaだった。それがチェコ人自身が今でも呼んでいる地名であるにもかかわらず、 いったいどういう訳でインドネシア人がそれをPragueに替えなければならないのだ。 インドネシア人が叫ぶスローガン「NKRI harga mati!」を皮肉って、みずからの言語を大 切に育成しようとしないナショナリズムは必ず空気が抜けてしぼんでいくだろうとかれは 指摘した。harga matiはbanting hargaへとこけていくことになるのである。 そんなジョスがインドネシアのマスメディアに何かを書くとき、かれの心中の葛藤はきっ と想像に余りある。かれは私に手紙を書く時のようなことをするわけに行かない。どのメ ディアであろうと、持ち込まれた原稿の語彙選択・用法・句読点その他のEYD規定事項 に則して言語政策の番人が原稿を切り刻んでしまうのだから。もちろんそこに番人の個人 的な解釈が混じりこむことはあっても、原則から外れたものが世の中に出回ることはあり えない。健全な思考や理性が世の中で自然と見なされる慣習的姿からかけ離れていれば、 その姿に合うようにカットされるのがこの世の定めなのだ。ジョス、われわれには逃げ場 がない。 多くのひとびとが言葉に注意深さを向けようとしない。編集者の仕事をした経験がわたし に、言葉が生命を支える呼吸と同じものであることを詩人さえもが認識していない実態を 教えてくれた。その反対に、言葉がその生き方にあまり近い関係にないと思われるひとび との中に、言葉に対する注意深さを抱いているひとびとがいることをも知った。 マグランのムンドゥッ地方のムラピ〜ムルバブ山系に住んで土を耕しているひとびとの間 にもそんな姿が見られた。ムラピ山の山守りである故ンバ・マリジャンは良い芸術がどん なものなのかを説明するのに、「良い芸術とはそれ自体が悪くなるものでなくて、演者や 作者によって悪くなるものだ」と語った。 シラッの世界で心身一義の原理を磨いているバンゴプティの指導者グナワン・ラハルジャ 師は英語のスピリットという言葉を安易に使わない。精神力を強調しようとする者はそん な姿勢に走り勝ちだが、かれは何年も適切なインドネシア語を考え続けた末に、ついにバ リでdaya gerakという言葉に到達した。それが合理的な力学を踏まえた道であることを世 の中に知ってもらうために、神秘的な言葉で済ませようとせず、師は言葉の選択に最大限 の注意を向けたのだ。 そんなことをわたしはジョスへの返信に書いた。言葉に対して注意深くあろうとするひと びとがインドネシアにいないわけでは決してなく、まだまだたくさんのひとびとが言葉に 注意を払っている。ところがきわめて残念で皮肉なことに、言葉に関わり、言葉にオーソ リティを持つひとびとの間にかれらはいないのだ、と。[ 続く ]