「インドネシア語正書法(7)」(2024年09月18日)

ライター: 文学者、クルニア JR
ソース: 2016年12月3日付けコンパス紙 "EYD" 

独裁者のラベルを貼られた人物への個人崇拝を打ち崩そうとの意欲ふんぷんたる議論に満
ちたストーリーは読者を熱中させるものだ。その独裁時代に本人と民族が関わったさまざ
まなできごとが、錯誤だらけ、不信だらけという見方で糾弾される。New Left Review 50 
2008年3月号に掲載された、スハルトに関するベネディクト・アンダーソンの「スハ
ルト引退、凡人暴君への追悼」と題するエッセイがそれだ。その内容をインドネシアの知
識人たちは?み砕きもせずに丸呑みした。

読者を没頭させるそのすべてのアスペクトにわたって筆者の言うナショナルアムネシアが
散りばめられている。ベンはEYDを、前オルバ期への記憶と知識の架け橋を消失させる
意図を持った歴史遺産と決めつけた。1972年に行われたEYDの施行の裏に隠された
真の意図はオルバ期の前に書かれたものとスハルト独裁時代のものを完全に断絶させる点
にあった、とかれは述べたのだ。学術的スパイものの語り口を持たせるかのように、ベン
はこう語った。
「ひとはタイトルを一瞥するだけでその書籍やパンフレットがモダンなものか、あるいは
昔のスカルノイズム・コンスティテュ―ショナリズム・革命・コロニアル時代の残滓かど
うかを知ることができる。・・・旧綴りで書かれたものを読もうとする興味それ自体が不
審を抱かせるものになる。」

EYDのもたらした変化が大きかったために新しい世代にとって古い書物は読みづらいも
のになり、その結果古い言葉で書かれた歴史を掘り返す気持ちが失せてしまったというか
れの解釈は間違っていない。ベンがスハルト綴りと名付けた言葉で書かれたものだけがか
れらに歴史のインプットを与えたのだ。そのようにして歴史のアムネシアが起こった。

本当のところは、EYDがスハルトレジームの文化操作であるというベンのテーゼは歴史
を正しく捉えていない。ジョージ・オーウエルの小説「1984」の中でNewspeakを創造
したオーウェリアンの政治操作を分析しているようにかれは空想したのだろう。
スハルトレジームは国民の意識をぼやけさせるためにユーフェミズムを作り出した。たと
えば、disitaやditangkapと言わずにdiamankanと言うようなことだ。しかし歴史の中での
EYDのクロノロジーは、ベンの僻目とは関係なく、スカルノレジーム期にさかのぼるの
である。
インドネシア語正書法の変更に関するアイデアは、国民のインドネシア語使用が「ぐぢゃ
ぐぢゃ」になっていることへのムハマッ・ヤミン教育指導文化大臣の危機感に根差してい
た。綴り方と文法の標準を定め、術語を作成することを目的にして国民の世論作りを図る
ために1954年、メダンでインドネシア語コングレスが開催された。1957年にプリ
ヨノ教授とカトッポ氏が率いるチームが綴り字変更案をまとめあげ、1967年に新しい
委員会がその内容を再検討した。そして討論会・セミナー・新聞での論争を経て最終的に
1972年8月16日、スハルト大統領がその新しい綴り方、すなわちEYDの使用開始
と、1949年3月19日から使われてきたスワンディ綴りの廃止を宣言したのである。

どの言語であれ、持っているさまざまな面がすべて固定不変ということはありえない。オ
ルバ期の前に書かれた歴史を消滅させ、文学の敏活な語り口を檻に入れる道具だとEYD
に罪を着せるのはあまりにもオーバーだ。バライプスタカ時代に華人プラナカン作家たち
が書いたパサルムラユ語あるいはイドゥルスの物語りスタイルはEYD時代に書かれたマ
ッブッ・ジュナイディの特徴的な弁舌に比肩しうるものだ。それどころか、ハイリル・ア
ンワルの聡明な詩想はEYDのコンセプトから30年も先駆けていた。ファン オパイゼ
ン綴りとスワンディ綴りが消えて行ったのは歴史の必然だったのである。
昨今、世の中にインドネシア語の「ぐぢゃぐぢゃ」現象が復活してきているのも、当たり
前のことなのだ。言語はその使用者とともに変化を続けるものなのだから。[ 続く ]