「ムラユの大河(16)」(2024年09月18日)

685年に義浄はインドを去って室利佛逝国に戻り、2年間滞在して経典の翻訳に励み、
687年に訳文経典を携えて故国に帰った。その後、695年に義浄は再度室利佛逝国を
訪れている。その685年にかれがインドを去って帰路に就いたときの様子は、かれ自身
がこのように記述している。
(インドから)船は2カ月の間にクダッに到着した。クダッ国はいまや室利佛逝が領有す
る国になっていた。船が到着するのは最初の二カ月間だけで、それからクダッで冬の到来
を待ち、南に向かう船に乗った。船はひと月かけて末羅瑜に到着した。末羅瑜も室利佛逝
国の一部になっていた。
一般的に船は最初の二カ月間に到着し、夏の半ばごろまで末羅瑜に滞在する。その後で北
に向かって船出する。そしてひと月後には廣東に到着するのである。


唐王朝に初めて末羅瑜の朝貢使節が来航したのは645年だった。ところが670年から
室利佛逝の使節がやってくるようになったとき、末羅瑜からの使節来航はぱったり途絶え
てしまったことが王溥の編纂した唐会要を調べると判る。
宋の時代にスリウィジャヤは三佛齊と書かれるようになった。三佛齊は1079年と10
88年に朝貢使節を中国に派遣した。◇畢と巴林馮のそれぞれからの使節が訪れたそうだ。
◇畢はtsyem-pjit、巴林馮はpae-lim-bjuwngが中古代発音なので、ツィェンピッがジャン
ビ、パェリンビュンがパレンバンという類推は成り立ちやすい。そのとき、ジャンビは三
佛齊の◇卑国と名乗ってスリウィジャヤの一部であることを表明したそうだ、
代答第二巻に「建隆元年九月,三佛齊王悉利大霞里壇遣使・・・元豐二年七月,遣◇卑國
使來貢」という文が見られる。悉利大霞里壇とはSri Udayaditya Warmadewa王のことだと
されている。一方、三佛齊◇卑国はジャンビを指している。◇卑の名称は宋史第四八九巻
にも書かれており、三佛齊の都城で国王がいる場所と記されている。
13世紀末の玉海第一五四巻には「大中六年十一月,占卑國來朝〔傳作◇[田比]〕」とい
う文があり、そのころジャンビは現在と同様の占卑という文字になっていたようだ。実に
音写文字の変遷はバリエーションに満ちている。

◇畢の名前で初めて朝貢使節が中国に上ったのは853年だそうだ。二度目の来航は87
1年だった。中国から眺めたそのような歴史の流れを取り上げてみるなら、義浄の書いた
マラユという名の王国が670年代にスリウィジャヤに名前が変わったという話から、そ
の原因が征服だったのか、政治的な何かがあったのか、それとも単なる名称変更だったの
か、そのような推理推測ができるように思われる。
そのこととは別に、その地の王権はパレンバンのスリウィジャヤがチョーラの侵攻で衰退
する前からジャンビの名前で外交を展開していたふしも感じられるのである。
おまけにもっと厄介なことに、世界レベルの歴史学界では三佛齊という言葉がスマトラ島
を意味して使われることもあったとしていて、華人が史書に書いた三佛齊という言葉がス
リウィジャヤ王国とスマトラ島のどちらの意味で使われたのかは文脈を分析しなければわ
からない状況に陥ってしまった。[ 続く ]

◇ = U+8A79