「インドネシア語正書法(8)」(2024年09月19日)

クルニアJR氏が指摘したEYDの的外れな汚名をスハルト憎悪派はいまだに使っている。
まるでヒトラーに次ぐ、その弟分のように憎悪派から言われているスハルトのレジームに
も功罪があった。そもそも産業経済面でオルバから最大の恩恵をこうむったのが日本であ
ったことを知らない日本人の若者が悪人スハルトのエコーだけを耳にしてスハルトとオル
バを非難し、そのくせ高速鉄道問題でインドネシアが日本を裏切ったと難詰していること
自体が大いなる矛盾だろうと思われる。

EYDは完成を目指して改良が繰り返され、2009年にはEYD第三版が発表された。
しかしやはりDisempurnakanという単語を記号として見ることが腹に据えかねたのだろう
か、2015年にインドネシア語の表記基準を示す第四版が出されたとき、EYDという
意味の曖昧な固有名詞をEBIに変更することが定められた。Ejaan (Bahasa Indonesia) 
yang Disempurnakanを単にEjaan Bahasa Indonesiaと呼ぶようにしようというのである。

その結果、それまでEYD第二版〜EYD第三版と呼ばれる慣行が築かれていたのに、そ
の第四版は異なるタイトルになったことから第何版という名前は付けられなかった。新版
の固有名称はPUEBIになったのである。Pedoman Umum Ejaan Bahasa Indonesiaの頭
字語がPUEBIだ。


ところが2021年に朝令暮改が起こった。やはり歴史の重みはたいへんなものなのだ。
言葉の意味が変であっても、それが何かを示す固有名称にされたとき、言語記号論が頭を
もたげてくる。EYDという名前が一貫性を世の中に示すようになったら、その基本コン
セプトが続けられるかぎり、その名称を続けるほうが世の中にとっては判りやすいにちが
いあるまい。

感情横溢型の古人が主観を丸出しにして何かを定めたとき、それが後世にどれほどの影響
を及ぼし得るのかということの一例がきっとこの現象なのではあるまいか。誠実さと慎重
さというものが人間の行為から欠けるとどのようなことになるのかという意味合いがこの
一例から推測できるようにわたしには思えるのである。

しかし、とは言っても、後世に楽をさせれば後世は愚か者になって行く可能性が高いのだ。
われわれ自身がわれわれの子孫をどんな人間にしたいのか、かれらの生きる世がどのよう
なものになることをわれわれ自身が期待しているのか、そのようなビジョンの下にわれわ
れが行動できれば最良なのだろうが、それもなかなかむつかしい。「意地悪ばあさん」で
はないが、子孫のために地雷や時限爆弾をあちこちに埋めておくことも、人類の未来にと
っては意義あることかもしれない。「子孫に美田を与えるな」と何千年もの昔に賢者はす
でに語っている。

PUEBIの改定版が2021年に発表されたとき、名称はまたEYDに戻されてEYD
第五版の名前で世に出された。つまりPUEBIというのはEYD第四版の別名だったと
いうことになる。


われわれがインドネシア語の文法や特に正書法に関してオーソライズされたものを極力順
守しようとするなら、EYDの各版を全部そろえて座右の銘にしておかなければならない。
インドネシア語の教師をして稼ごうと思っている方は、「自分はこう習った」という個人
体験に固執すると立場を危うくすることになるかもしれない。

しかし、そうは言うものの、インドネシア人国語教育者自身もなかなかそこまでできてい
るわけではないようだ。「自分はこう習った」が人間社会の常習的行動なのだから。とは
言えインドネシア語教育者であるなら、EYDの規則を守らなければ自分の職業に危機が
訪れかねない。果たして、インドネシアの国語教育者はいったいどれほど、EYDの全版
を読み通し、それを記憶して国語教育に当たっているのだろうか?[ 続く ]