「ムラユの大河(17)」(2024年09月19日) 670年に室利佛逝の名前ではじめて朝貢使節が中国にやって来たとき、マラユ王国はい ったいどうなっていたのだろうか。その時期にその地方を訪れた義浄の文も、その地方の 政治状況の詳細をうかがわせる内容を示してくれないため、このポイントがいまだに解か れていない謎になっている。 当時、アジアの東にある中国と西方のアラブ地方を結ぶ通商路がアジア大陸のど真ん中を 通って作られたのとは別に、海を経由して東西を結ぶ航路も作られた。その海上交通路の 中間にスマトラ島が横たわっていた。そしてギリシャ人が黄金の島と呼んだその島に黄金 ・ダマルやクムニャンの樹脂・材木・象牙・犀角・蜂蜜などの世界中が求めるたいへん高 価な物産が産出されていた。それらの商品を求めてスマトラ島に東からも西からも商船が やってくるのは当然の成り行きだったことだろう。商船は自分の土地で産する商品を積ん でスマトラ島にやってきて、スマトラの物産並びにもっと遠い土地からスマトラにもたら された商品を積んで故国に帰った。スリウィジャヤ王国はその両端のちょうど中間地点に 生まれた一大交易市場だったのである。 1025年ごろにインドのチョーラ王国に侵攻されたスリウィジャヤ王国は各地の属領を 攻め落とされ、王都にまで攻め込まれて国王がインドに拉致され、国はヌサンタラの覇権 を旧名のまま維持し続けたものの、チョーラの操り人形にされたために国力が衰えた。 そのときにジャンビ地方がどうなったのかはよく分からないが、スリウィジャヤ王国の立 て直しにジャンビ地方の支配者が力を注いだという仮説バージョンは考えられないだろう か?スリウィジャヤ王国の歴史というのはどうやら、パレンバン編とジャンビ編をひとそ ろえにして眺めなければならないものなのかもしれない。 11世紀にパレンバンのスリウィジャヤ王国が衰微したために王都がムアロジャンビに移 されて、ダルマスラヤ王国となったという説もある。その王都はバタンハリ河内陸部で産 する黄金・ダマル樹脂・木材・ピナンなどの大商港になったという話なのだが、ムアロジ ャンビ古代学林説とこの説はどう組み合わさるのだろうか? シゴサリ王国のクルトヌゴロ王が命じた1278年のマラユ征伐Pamalayuによってスマト ラのムラユ王国は降伏し、ジャワのシゴサリに服属した。降伏の証としてマラユ王は四人 の王女をクルトヌゴロに献じた。その四人の王女のひとりが生んだ子供がアディティアワ ルマンで、かれは成人してからマラユの王として母の故郷であるミナガに赴いて統治を開 始し、しばらくして王都をブキッバリサンの山中である現在の西スマトラ州ダルマスラヤ 県に移した。そこはバタンハリ河の源流であり、バタンハリ河が王都の移転の通路になっ たことは間違いあるまい。 1286年にクルトヌゴロ王がアモガパサ像をダルマスラヤに贈呈して友好親善を表明し ている。その像の台座にダルマスラヤの名称が刻まれており、ダルマスラヤという言葉が 世に出た始まりとされている。刻まれているのは次のような言葉だ。 untuk Srimaharaja Srimat Tribhuwanaraja Mauliwarmmadewa dari Melayu Dharmmasraya この山中のダルマスラヤに作られた王国がさらに西方のスルアソ、そしてもっと西のパガ ルユンに王都を移してミナンカバウ王国に変化していくのである。パガルユンの王宮が莫 大な黄金のストックを抱えている話はVOCの文書にしばしば登場した。 バタンハリ河上流は黄金の産地だったのだ。黄金境スワルナドウィパの名がインドからギ リシャにまで轟いたのをバタンハリ河の功績に帰する説が少なくない。ダルマスラヤ王国 が東海岸部からはるか西方のブキッバリサンの山中に移転した理由を黄金の産地の完全支 配を目論んだためと推測するのは容易だろう。[ 続く ]