「ムラユの大河(18)」(2024年09月20日) ダルマスラヤ王国が去ったあとのバタンハリ河デルタ地方については、断片ばかりで歴史 をまとめた資料がなかなか見つからない。多分パレンバンのようにマジャパヒッがブパテ ィを置いた可能性が高いと考えられる。しかしマジャパヒッ末期にパレンバンのプパティ がイスラム化したように、ジャンビでもイスラム化が進展していたはずだ。15世紀ごろ のこんな話がある。 15世紀にイスラム布教が盛んになって、グジャラート出身のTuanku Ahmad Salimがブル ハラBerhala海峡に到着し、海峡周辺地域のムラユ人にイスラム布教を行った。そしてイ スラム社会ができあがると、かれはイスラム首長になってDatuk Paduko Berhaloを名乗っ た。かれの支配地域はバタンハリ河まで広がったようだ。 このダトゥッはミナンカバウの姫Putri Selaras Pinang Masakを妻にして子供を4人もう け、子供たちの全員がDatukになった。ダトゥッというのはアダッの長老を意味している が、ここでは統治者になれる高い階層の者という意味に解釈できる。 末子のOrang Kayo Hitamは内陸奥地に新領地を持とうと考えた。大臣のひとりTumenggung Merah Matoの娘Putri Mayang Manguraiを妻にしたかれにトゥムングンが内陸奥地への踏 査を勧めてカジャンラコ船とアヒルのつがいを用意した。バタンハリ河をさかのぼり、二 羽のアヒルが岸にあがって二日二晩巣作りをしたなら、そこが新領地となるべき場所だと トゥムングンが婿のオラン カヨ ヒタムに教えたのである。 一行の乗ったカジャンラコ船が河を遡行してカンプントゥナダンまで来た時、二羽のアヒ ルが陸に上がって巣作りを行った。ここがトゥムングンの言った場所だったのだ。オラン カヨ ヒタム夫妻と従者たちはその地を新領地に定め、タナピリと名付けてそこに王国を 建設した。それが現在のジャンビ市になったという、ジャンビ市の由来説話がそれだ。 歴史的には1460年にダトゥッ パドゥコ ブルハロと妻のスララス・ピナン・マサッが タナピリに都を定めて統治者になり、ムラユジャンビ王国を称していた。1615年にな ってマラヤ半島にあるクダッの王子が王位を継承し、この新王がスルタン アブドゥル・ カハルを称して公式のスルタン国になった。それがジャンビスルタン国誕生の経緯のよう だ。そのため首都もそのままの場所で継続した。長寿を保ったこのスルタン国は1904 年にオランダ東インド政庁によって王国制が廃止され、オランダ人レシデンが置かれて植 民地政庁の直接統治に服するようになった。 バタンハリ河の水源は海抜2,585メートルのラサン山にあり、流れ出た水は西スマト ラ州ソロッ県のダナウディアタスに流れ込む。この湖からバタンハリの水流がはじまって いるのだ。2006年9月、コンパス紙取材班がバタンハリ河の最新状況視察を目的にし てダナウディアタスまでやってきた。、河を船で下ろうというのである。 湖から下り落ちる水流は多数の巨石の間を激しい奔流になって走り、船でそこを通るのは ほぼ不可能に近い。だいぶ下ったグヌンメダンの町では穏やかな水流になっているので、 激流はいったいどの辺りまで来ているのかとコンパス紙取材班が河を遡行したところ、1 0キロほど上流に水門が作られていて、そこから上流へ進めなくなっていた。およそ60 メートルの川幅の端から端まで水門が流量をコントロールするようになっている。これは その地方の農業用灌漑プロジェクトに関連して設けられた公共施設だった。 「昔はもっと上流からジャンビの町まで収穫した林産品を船で運ぶことができましたが、 今はこの水門のおかげで水運を続けることができず、荷をここで下ろしてジャンビまで陸 送していますよ。」と上流のゴム農園を回る仲買人のひとりは語った。[ 続く ]