「インドネシア語正書法(終)」(2024年09月23日)

インドネシア政府の国語行政における正書法を使った言語の秩序統制は、形式面から見る
なら妥当な道を歩んでいるように判定できるだろう。しかし言葉というものが意思疎通の
道具であるという本質からすれば、どれほど形式がすっきり簡潔明瞭に整えられようが、
それは道具の見栄えの良し悪しでしかなく、道具が果たすべき役割や生み出す効果それ自
体とは次元の異なるものにならざるを得ないのではあるまいか。

言葉が人間の間でなされる合意の産物であるという本質が正書法の助けによってはるかに
グレードアップされることを否定する者はいないはずだ。その次元で正書法は絶対善なも
のになるのである。

ところが人間の意思疎通は語彙選択の偏り、文法の逸脱、暗意の齟齬などの障害を乗り越
えて、相通ずる意思を実現させることが十分に起こりうるのだ。正書法を知らない幼児が
書いた文が、その親には十二分に理解できるというケースも少なくあるまい。あるいは日
本語学習者が使う日本語の奇妙な語法や言い回し。それを頭から拒否する日本人もいれば、
その学習者が言いたいことを理解してやるように努める日本人もいる。そのとき、疎通さ
れるべき意思のクオリティが意味伝達の成果を決める要因になるのである。


確かに、世間一般に向けて書かれる学術的哲学的な論説に正書法は不可欠なのだ。しかし
句読点やスペースの空け方などあまりにも枝葉末節な部分に至ってしまえば、読者は自分
なりの解釈でそんな間違いを乗り越え、筆者の書いた意思を理解しようと努めるはずだ。
そんな枝葉のことがらが文意に多義性を与えた結果、筆者の意図が読者に誤解されるとい
うようなケースは稀にしか起こらないものではないかとわたしは思う。

わたし自身、ファン オパイゼン綴りが定められる前に書かれたパサルムラユ語の小説を
読むことに特別な不便はもう感じなくなっている。わたしの場合はむしろその時代の構文
形式、句の順序あるいは位置、などといった文型分析に困難を感じることのほうが多い。

ともあれ結論的に言うなら、文字言語による意味の伝達が正書法で取り扱われる対象物な
のであり、そこには当然、文字言語による作文の際の語彙選択や文法的多義性あるいは言
語論理等々の、綴り方や書き方と無関係な要素が絡まり合うことになる。作られた文の意
味形成に与える影響はいったいどの要素が大きいのだろうか?その視点に自分を置くなら、
正書法という要素は意味形成よりもむしろ意味伝達により大きい比重で関わっていること
に気付くだろう。そして言語による意味や意思の伝達は、わたしの持論である不可知論に
至る可能性を十分に持っているのである。


わたしは決して正書法を否定しているのではない。EYDが正書法としてコンマやスペー
スの使い方、大文字やイタリックはどんな場合に使う、などという枝葉まで定めるのも、
インドネシア語という元来母語者のいなかった言語にとっては必然性を感じさせるものの
ようにも思える。

しかしインドネシア語を母語にする国民が増加して来た昨今、枝葉末節の規定は言語アー
トを意気に持つ国民が中心になってそれへの破壊を頻発させる懸念がある。いや、それよ
りもっと以前に、バハサガウルがEYDの綴り方を既にもてあそんでいるではないか。

インドネシア人がEYDの新エディション作りをやめる時がインドネシア国民の官高民低
意識の溶け去る時かもしれない。言語は人間の生活を成り立たせるためのベーシックツー
ルであるとともに、生活の一部を構成している遊びのための玩具でもある。そして遊びを
社会生活の中に持ち込む人間もひとりやふたりではない。

どんな強権政府であろうと、国民ひとりひとりの遊び心の中まで支配することはできるま
い。インドネシア政府教育文化省が30年も40年にもわたって相手にしようとしなかっ
たバハサガウルの語彙がほんのわずかではあってもKBBIに採録されるようになった。
インドネシアの民主化は間違いなくその道を歩んでいるのである。[ 完 ]