「ことわざ、その一」(2024年09月27日)

ライター: 短編小説作家、クルニア JR
ソース: 2011年7月1日付けコンパス紙 "Peribahasa" 

「密林にライオンがいなければ、弱視の大猿でさえ王者になれる」
ことわざというのはわれわれが体験し、直面し、期待し、忌避し、学ぶさまざまなことが
らに関して、暮らしの中で安寧と英知に達するよう意味付けを行なう賢明な見解を含んで
いる簡潔な言葉である。

インドネシア語の源泉となったムラユ語はことわざが豊富だ。日常生活の諸相のそれぞれ
において、家庭内の小さなものごとから国政を統べる広さに至るまで、検討が加えられて
ことわざが生まれた。peribahasa, pantun, pepatahあるいは深い意味を持つ言葉の形で。
その点において、生活の指針として計り知れない価値を持つ遺産をわれわれの先祖が残し
てくれたという理解を持つことはたいへん適切なのである。残念なことに、われわれが直
面している現状はわれわれが感謝を知らない子孫であるという結論を示しがちだ。


恥を抱えて生きるよりも死ぬほうがましだということを「土の臥所で死ぬほうが、死骸を
見せながら生きるよりも良い」とことわざは語る。この現代にそのことわざを信奉して生
きている者がいるだろうか?腐敗行為が発覚してその顔が泥にまみれても、心に恥の意識
などさらさら浮かんでは来ない。責任感も責任姿勢も消え果てた。

「風をまき散らす者は嵐を浴びる」このことわざも政治家や行政高官の手中で魔力を失っ
たように見える。大金や「お前たちの腐敗行為を世間に知らせるぞ!」という威嚇で嵐を
方向転換させることができるのだ。その結果は「わたしが風をまき散らし、お前たちが嵐
を浴びる」。

今ある現実とその文脈においてたいへんよくフィットしていることわざがこれだ。「ubi
あればtalasあり、budiあればbalasあり」。このことわざは善悪観のおそまつな法曹関係
者・行政官・国民の代表者たちに関わる贈収賄の真理を物語っている。政治家になった実
業家は往々にして、許認可を扱う役所の長や法の番人にしばしば気安い振舞いをする。ル
ピアやバーツやドル札を握って握手するのである。

budiという言葉が善やポジティブなことがらを示していたのは昔話になり、現代は善人が
損をする時代になった。悪人はとても知恵が働き、善人をつまずかせてばかりいる。


こんなことわざもあった。「一度でも試験で不正を行なえば、一生ひとから信じてもらえ
ない」。しかしこの民族の記憶喪失傾向を見るなら、その真理は疑ってかかる必要がある
かもしれない。不倫理行為の真っ最中をごく最近暴かれた人間が、ほんのしばらくしてか
らまた社会的名士として世間の信用を得るのである。われわれもそれを肯定して言う。
「あのときかれが犯した過ちは人間的な弱点だったのだ」と。

ひとりの政治家が汚職撲滅コミッションに追われたが、シンガポールに逃れるのに成功し
た。かれは同じ政党の仲間たち全員が全国民から白い目で見られるようになることに呵責
の念を感じないのだ。「ざる一杯の魚を一匹の魚が腐らせる」

小魚であっても政党や全法曹機関に混乱をもたらすことができるのなら、この国にはもう
王者になるライオンは存在しないのか、という疑問がわれわれに湧いて当然だろう。それ
について、古い格言がある。「花園で一度だけ生きる甲虫になれ。ゴミの山で一度だけ生
きる蝿になるな」。みんなで何と答えようか?「エーゲーぺー!(Emang gue pikirin!)」
言葉が民族を表すというのがこれだ。