「インドネシア大統領パレス(2)」(2024年09月27日)

イ_ア語ウィキペディアのIstana Presiden Indonesiaの項目には、パプアのジャヤプラ
に建設が予定されている大統領専用館がGedung Negaraという名称でしばらく前に第7番
目の大統領宮殿としてノミネートされていたが、現在はそれが抹消されてイスタナガルー
ダに取って代わられている。

というのも、ジャヤプラの大統領館は州知事官邸の敷地内に大統領専用館を用意する構想
であり、大統領が州訪問を行うときに専用オフィスが用意されているようにして執務の効
率を高めるのがその目的と説明されている。その構想に従って、大統領宮殿を持たない各
州の首府に大統領館が建てられることになるのかもしれない。

しかしこのコンセプトは上の7カ所の宮殿と趣が大きく異なっているため、イ_ア語ウィ
キペディアが情報を変更したのはむしろ当然ではないかとわたしには思われる。


実に面白いのは、イスタナガルーダを除く6つの宮殿の中に、インドネシア共和国大統領
が居住し執務するための館として建てられたものがひとつもないという事実だ。つまりタ
ンパッシリンを除いて他の宮殿はオランダ時代に建てられ、植民地統治機構の最高位者が
使ったものだったというのがその裏事情になっている。おまけにタンパッシリンはスカル
ノ初代大統領が建てたものだったとはいえ、それはかれがそこに住んで執務するためのも
のとしてでなく、人里離れた大自然の中でひとときの憩いを愉しむための別荘として建て
られたものだったのであり、他の宮殿とは事情がまた違っていた。

もちろん24時間勤務の大統領が全く政務を行わないということはありえないので、タン
パッシリン宮殿にもそのための施設と設備が設けられており、大統領がバリ州を公式訪問
すれば使われて当然のものになっている。

ジョコ・ウィドド第7代大統領が首都を移転させてはじめて、インドネシア民族がインド
ネシア大統領を住まわせるための宮殿を建てたことになる。首都の移転ということの中に
そういう意味も包含されていたと言えるのではあるまいか。この話題が首都移転の議論の
中で、どこかで語られていただろうか?

この事実を皮肉な目で眺めるなら、ガルーダ宮殿が建てられるまでのインドネシアという
国は、独立と民族自決を達成したと言いながらも、その民族独立というのは自らを植民地
支配していた異民族の最高統治者が使っていた宮殿に入って自民族を統治することだった
のか、というシンボリックな批判を招き得る状態になっていたと言えるだろう。新聞にそ
ういう論説が登場したことも現実にあった。

歴代6人の大統領はそういうシンボリックなアイデアを持っていなかったのか、という批
判をそれは意味していることになる。実は、初代大統領スカルノがそのビジョンを持って
いたことを語る声がある。


スカルノはヴィルヘルミナパルクを潰してイスティクラルモスクに変え、オランダ人が設
けた儀典広場をただのバンテン広場に変え、バタヴィアに建てられたオランダ人の記念碑
や記念塔を引きずり倒したことが示すとおり、かれはオランダの遺産を憎んでいた。そん
なかれが大統領宮殿というシンボリックな建築物をどう思っていたかは言うまでもない気
がする。だからかれがカリマンタンに首都を移転する腹案を抱いていたという話は納得で
きるものに思われるのである。

ただしその着手はあの時代、あまりにも時期尚早だったはずだ。受け皿となるカリマンタ
ンがまだまだ未開発で、国自体の経済力も見すぼらしく、ましてや人間の移動手段すら未
発達な状態の時にそんなアドバルーンを打ち上げても単に騒ぎを起こすだけであることを
スカルノは知り抜いていたにちがいあるまい。

娘のメガワティとスカルノファンクラブのジョコウィがスカルノの腹案を実現させたこと
を、まるで歴史の因果関係のようにわたしは感じている。[ 続く ]