「インドネシア大統領パレス(3)」(2024年09月30日)

七つの建物が建てられた古さを比べるなら、次のような順番になるだろう。
1740年 Istana Cipanas (Cipanas)
1745年 Istana Bogor (Bogor)
1804年 Istana Negara (Jakarta)
1832年 Istana Gedung Agung (Yogyakarta)
1873年 Istana Merdeka (Jakarta)
1960年 Istana Tampaksiring (Tampaksiring)
2024年 Istana Garuda (Nusantara)

しかしオランダ人東インド総督の居館としての意味で捉えるなら、多分こうなるようだ。
18世紀後半Istana Bogor (Bogor)
1820年 Istana Negara (Jakarta)
19世紀末 Istana Merdeka (Jakarta)
1926年 Istana Cipanas (Cipanas)

インドネシア人大統領の日常住居兼執務オフィスとなると、こうなるのだろうか?
1946年 Istana Gedung Agung (Yogyakarta)
1950年 Istana Merdeka (Jakarta)
1950年 Istana Negara (Jakarta)
1950年 Istana Bogor (Bogor)
2024年 Istana Garuda (Nusantara)

イスタナチパナスとイスタナタンパッシリンは国政上層部のための保養所という印象の方
が濃い。政府行政機構の中枢がすべて首都ジャカルタにあるのだから、行政トップの大統
領が山中のチパナスやバリ島に居住していては行政がまわらないので、当然と言えば当然
の話だ。だがインドネシアの歴史の中にはオランダ時代に総督がボゴールに定居した時代
があり、必然的にバタヴィアの各省庁はボゴールに出先機関を置いて総督との連絡ルート
作りを余儀なくされた。

オランダ東インド総督がボゴールに定居するようになったのはVOC時代からのことで、
VOC倒産後もダンデルスがその前例に倣い、さらに新生オランダ王国領東インドの総督
も最初はその前例に従っていた。しかしそれが無駄と不能率を生んでいるのは明白であり、
総督をバタヴィアに住まわせるのが当然の帰結になった。なにしろダンデルス自身がヴェ
ルテフレーデンにあるヴァーテルロー広場の真向かいに東インド総督宮殿の建設を命じて
いるのだ。


結果的に東インド総督はバタヴィアに定居するようになったのだが、1920〜30年代
になってバンドンへの首都移転の方針が出されて、政府機関のいくつかがバンドンに移る
ことが起こった。多分そのためだろう、総督がバンドンに近いチパナス宮殿に住んだ時期
がある。

バタヴィアは外敵の襲来に対する防衛がたいへん困難であるため、堅固な首都防衛体制を
築くのに適した場所が検討された結果、高原都市バンドンに白羽の矢が立ったのである。
東インド植民地軍はごっそりとバタヴィアからバンドンに隣接するチマヒに移転した。イ
ンドネシアの鉄道、郵便、電話など国有事業の本社がバンドンにあるのは、その時のオラ
ンダ東インド首都移転構想に従って植民地政庁管下の公共事業組織がバンドンに移転した
からだ。バンドンにも、移転して来る政府機構を受け入れるためにグドゥンサテなどいく
つかの建物が建設された。ビジネス界でもバンドンに本社を設けるところがちらほらと現
れるようになった。[ 続く ]