「インドネシア大統領パレス(4)」(2024年10月01日) ところがオランダ本国政府が東インドの首都移転に賛成しなかった。本国からの許可がい つまでたっても下りないためにバンドンへの移転の準備を進めていた東インド政庁は動く に動けず、そのうちに第二次世界大戦が始まって本国政府はイギリスに亡命してしまった から、総督はバタヴィア、植民地軍総司令部はバンドンの隣のチマヒに別れる結果を余儀 なくされた。いざ日本軍のジャワ島上陸が始まるとバタヴィアの行政機構はバンドンへ逃 げ出し、バタヴィアは無防備都市として日本軍の前に無血開城したのである。 1945年8月17日にインドネシア共和国独立宣言がなされたものの、初代スカルノ大 統領はジャカルタの東プガンサアン通り56番地の自宅に住んで執務した。オランダ時代 に総督が使っていたガンビル宮殿に日本軍最高指揮官が住んでいたので、日本軍が日本に 送還されるまで、スカルノはそこに入ることができなかったのだ。 最高指揮官とは大日本帝国陸軍南方軍第16軍司令官のことであり、1941年に今村中 将、1942年11月に原田中将、1945年4月に長野中将が任命された。最高指揮官 が常に軍政監になったわけではない。 ところがジャカルタに戻って来たNICA(オランダ東インド文民政府)が共和国政府撲 滅の姿勢を執ったためにジャカルタはNICAに占領されて、ガンビル宮殿とレイスヴェ イク宮殿は再びオランダ人総督の宮殿にされた。 ジャカルタに居られなくなった共和国行政機構はヨグヤカルタに首都を移し、大統領はヨ グヤカルタのグドゥンアグン宮殿を大統領官邸にした。つまりインドネシアの歴史におい てインドネシア人大統領がはじめて使った宮殿がグドゥンアグンなのであり、そこは元々 ヨグヤカルタスルタン国を監督するオランダ人知事の公邸だった。総督用のパレスとして 作られたものではなかったのである。その建物が大統領宮殿になったのは、スカルノがそ こに定居したために起こったことだった。 ハーグの円卓会議でインドネシア連邦共和国をオランダが承認した結果、スカルノとかれ の家族は1949年末にやっとジャカルタのイスタナガンビルに入ることができた。イス タナガンビルは植民地時代に建てられてオランダ人がコニングスプレインパレスと呼んで いた宮殿であり、そこはレイスヴェイク宮殿に従属的な位置付けにされていた。 しかしスカルノは国を象徴する宮殿と儀典広場をオランダ時代のレイスヴェイク宮殿=ヴ ァーテルロー広場からムルデカ宮殿=ムルデカ広場に移し替えたから、必然的にイスタナ ムルデカがインドネシアの筆頭宮殿の地位に躍り出ることになった。毎年行われる独立宣 言記念日の国旗掲揚式典は独立宮殿の前庭広場が舞台になっている。 スカルノがヨグヤカルタからジャカルタに戻って来てから、かれは徐々にジャカルタ周辺 の四つの宮殿を使うようになった。執務は独立宮殿で行い、国家宮殿に国賓を宿泊させ、 週末にはボゴール宮殿で気分転換をはかり、そして独立宣言記念日の前にはチパナス宮殿 で大統領演説の原稿を作った。 オランダ人植民地支配者が使っていた4宮殿がインドネシアに移譲されたとき、建物の威 容とは裏腹な見すぼらしい内部になっていた。その内部をインドネシアの国家宮殿として ふさわしいものに充実させたのがスカルノだったのである。絵画をメインにオブジェやア ンティークなどの芸術品を国家資産として買い集め、良質の家具と共に宮殿内に配置して 国のパレスとしてふさわしいものに仕立て上げたのだ。 おまけに宮殿敷地内にスカルノの発案で建てられた施設設備もたくさんあった。ジョクジ ャ宮殿のハス池、チパナス宮殿のベントル館、ボゴール宮殿の諸パヴィリオン、独立宮殿 の高さ17メートルの国旗掲揚ポール・・・・ [ 続く ]