「古文書の愉しみ(1)」(2024年10月01日)

ライター: ジャーナリスト、アンドレアス・マルヨト
ソース: 2007年6月25日付けコンパス紙 "Sudah Jadi Bisnis Seabad Silam" 

ジャワ島の要港が多々ある中で、スマラン港は百年以上昔から重要な役割を担っていた。
スマランの町とその港は内陸部で産する農産物の国内外への積出港の機能を重く持たされ
ていたのである。当時の古文書やビジネスレターを読めば、その特徴がイメージの中に彷
彿と浮かび上がってくる。往時のスマラン在住ビジネスマンのひとり、リム・チンエッが
ビジネス活動の中で書いた手紙類が古文書として残されていて、その内容を調べると、百
年以上前のスマランの様子がわれわれの想像の中に形象をつむぎ出しはじめるのだ。

かつてスマランのビッグビジネスとして国内外に名を馳せたウイ・ティオンハムやタスリ
ピンほどの知名度をリム・チンエッは確かに持っていない。しかしかれが商売相手と交わ
した通信の内容を示すさまざまな手紙・電報・ハガキなど数千通の通信文は、往時の農産
物を扱うビジネスがどのような問題を抱え、ビジネス従事者がどのように意思疎通をして
いたのかということを現代のわれわれに教えてくれる。

リムの書いたムラユ語のハガキ2,258枚、中国語のハガキ213枚、電報26枚、そ
の他取引に関わるもの、入札オファー、保険関連の手紙など、膨大な数の古文書がスマラ
ンのコレクターのひとりハンドコ氏の手中にある。リムの書いた千通を超える手紙がまだ
自分の所蔵品にあるのだが、仕事仲間に貸し出してあるので今はここにないとハンドコは
語った。リムが書いたすべての古文書をハンドコが独占的に持っているわけではない。

数量的な想像はつかないものの、別のコレクターがリムの古文書を持っている可能性は決
して小さくないのだ。それほど大量のビジネスレターをリムが書いた事実から、リムが取
り組んだビジネスもなかなか壮大な規模のものだったのではないかという推測が可能なよ
うに思われる。

面白いことに、リムが書いた手紙の中に自分の名前のアルファベット綴りに揺れがあるこ
とが判っている。かれはLiem Tjin Ek、Lim Tjin Eek、Liem Tjin Ikなどと自分の名前を
書いているのである。

リムが残した通信文書の内容から、百年以上昔の農産物ビジネス活動の内容を推し量るこ
とができる。また農産物ビジネスの中でスマランが担った位置の重要性もリムの通信文書
が教えてくれる。オランダ東インド政庁が全国に先駆けてソロSolo・ブロラBlora・マグ
ランMagelangなどの内陸地方とスマランを結ぶ鉄道を建設したこともスマランの重要性を
証明する事実のひとつだと言えるだろう。
 
< マーケット >
スマランの町中にも農産物売買センターがあった。リムが活動していた時代に現在のジョ
ハル市場に近いパダマラン地区は有名な農産物の取引センターになっていたのだ。パダマ
ランは穀物市場として高い知名度を持ち、リムはパダマラン地区内にある住宅地に住んで
いた。

リムの扱った商品は幅広いものだった。かれは木材・タバコ・砂糖・トゥラシ(エビ醤)
・ヤシ油・クサンビ油・松脂・その他もろもろの農林産物を売買した。そればかりか、か
れは工業製品の一部まで手掛けた。ロウソク・バテイッ布・新聞紙。まるで総合事業者の
はしりのようだ。[ 続く ]