「古文書の愉しみ(2)」(2024年10月02日)

華人からジャワ人やムラユ人に至る幅広い商人層とリムは取引した。取引相手はスラバヤ
Surabaya・グルシッGresik・バタヴィアBatavia・クトアルジョKutoarjo・ブロラBlora・
プカロガンPekalongan・スラカルタSurakarta・トゥガルTegal・プマランPemalangなどジ
ャワ島各地に散在していた。外島部ではポンティアナッPontianakに取引相手が多かった。
ポンティアナッの商人たちとはタバコの取引で頻繁にコンタクトがなされた。

国外の取引相手もいた。かれの手紙類の中にシンガポールの商人とやり取りしたものが混
じっている。リムがオファーした商品も多岐にわたっていた。1903年6月9日付けの
手紙は封筒がなくなっているために宛先人の名前が不明だが、それは砂糖・チーク材・糸
・ロウソクを相手にオファーする手紙だった。

リムが自分の事業を開始したときの状況については、何も判らない。ハンドコ所蔵のビジ
ネスレターを調べたかぎりでは、1902年が一番古い日付になっていた。その年にリム
が書いた手紙類は、アルファベットで書かれたムラユ語のものばかりが16通あった。

ビジネスレターの数の多さがリムの事業の繁栄を投影していると仮定するなら、1906
〜1908年が最繁多の年になっている。そのピーク期に書かれたビジネスレターは1,
228件に上った。もちろんこれはハンドコ所蔵分に限定しての話になる。


リムが書いた手紙の文章に見られる当時の商人たちの交際のし方は現代のビジネスライク
な態度とまるで異なっている。友情と礼節に満ちた表現と相互の親近感を高める文章が紙
面を埋めて、相互信頼の中での取引という趣を濃く感じさせている。

当時のビジネス通信文には頻繁にsobat baikという言葉が書かれた。現代インドネシア語
では多分「Hai bos.」とか「Gimana bos.」などのような親愛表現に類比できるように思
われる。(訳注:sobatというのはsahabat yang karibを意味する言葉)

互いに同じくらいの商売力を持つ商人で、まだそれほど親密な間柄になっていない相手に
対しては、soedaraという言葉が使われた。グリッセ(Grissee、今のグルシッGresik)の
商人キム・ティッグワンからリム宛に書かれた1904年3月17日付の手紙では、キム
はSoedara Liem Tjin Ekとリムを呼んでいる。トゥガルの大型商人のひとりがリムにクサ
ンビ油の状況を問い合わせた手紙の中にも同じ表現が記されている。(訳注:現代綴りで
はsudaraと書かれる。saudaraの短縮形)

リムより目下と思われるプア・チンチアンがリム宛に書いた手紙にはリムから10フルデ
ンを頂戴したことへの感謝の言葉が記され、文末に書かれた差出人の名前の後ろにNjang 
amat rendahという句が添えられている。(訳注:njangは現代綴りでnyangと書かれる。
インドネシア語yangに対応するブタウィ語がnyang)

一方、リムの親族関係者はかれをOmと呼んでいたようだ。(訳注:オムとは叔父/伯父を
意味するオランダ語Oomがインドネシア語に摂取された言葉)

当時使われていた言葉についてディポヌゴロ大学文学部インドネシア文学科のトリヤス・
ユスフ教官は、ムラユ語の場合はパサルムラユ語が使われたと語る。商人たちはパサルム
ラユ語で意思疎通した。多くの客家系商人が使ったために、客家語をメインにして華語の
影響が浸透した。[ 続く ]