「インドネシア大統領パレス(5)」(2024年10月02日) 毎年催される独立宣言記念式典(現代インドネシア人は「宣言」の言葉を捨ててしまった ようだ)の際に、スカルノが発案して作らせたその国旗掲揚ポールに紅白旗が掲げられる。 そこに集まっているすべての人間とテレビラジオでその状況を見聞している全国民がその 旗に向かって忠誠を心の中で誓うのである。 オランダ時代、独立宮殿の表庭に国旗掲揚ポールはなかった。オランダ人は建物の一番高 い場所に建てたポールにオランダ国旗をはためかせていたのだ。だからスカルノには、国 の威厳を示す国旗掲揚ポールが必要だった。かれは独立宮殿の表に建てる国旗掲揚ポール を自分でデザインした。 高さ17メートルのコンクリート製ポールは1950年に建てられ、ジャカルタで初の独 立宣言記念式典を飾った。純白に塗られたポールには金色の蓮の花のオーナメントが付け られており、インドネシアを象徴するものになっている。 このポールを建てるために3万ルピアの国家予算が計上された。そのころの3万ルピアは 米15トンに相当したから、インドネシア社会党がその方針を厳しく批判した。政府は国 民の抱えている問題よりも些事を優先し、その些事のために大金を使おうとしている。し かしスカルノはそれに屈せず、自分の意志を押し通した。 バンドン工大の建築技師たちがその製作を手伝い、強固で恒久的なポールが出来上がった。 ポールが建ったとき、国民の多くがその立派さに感動した。1950年代から60年代に かけての時期にそのポールはコンクリート構造物分野のインドネシア人専門家たちにとっ ての誇りになっていた。 その時期の建築界や家具デザイン界は蓮の花のオーナメントを、円柱頭部・彫刻家具・絵 画・レリーフ・壁の装飾・蓮池などに頻繁に使用していたので、スカルノのデザインはそ れに倣ったものと見ることもできる。少なくともこのポールは、その時期のスカルノ本人 が示した建築デザインの才を象徴するものだったと言えるだろう。 スカルノ大統領が国家宮殿にいるとき、それを示す旗が紅白旗と共にそのポールに掲げら れた。黄色地の中央に黄金の星を描いたものだ。しかしその習慣はスカルノの時代と共に 終わった。次の大統領はその習慣を続けなかった。 G30Sクーデター事件を鎮圧した陸軍のスハルト少将が国内治安の実権を掌握してイン ドネシア共産党を壊滅させ、軍部・イスラム界・共産党の三頭の馬を操縦していたスカル ノを落馬させた。1967年3月12日13時31分、暫定国民評議会第8回特別総会で スカルノを大統領職から罷免する決議の槌音が評議会議長アブドゥル・ハリス・ナスティ オン将軍によって鳴らされた。 その年の8月、独立宣言記念日を前にして48時間以内に大統領宮殿を明け渡すように命 じる国民評議会からの手紙がスカルノに届けられた。その手紙を受け取ったスカルノは大 統領警護支隊副司令官で元大統領副官だったマウルウィ・サエランに子供たちをファッマ ワティ大統領夫人の私邸に送るように命じ、自分はクリーム色のパジャマズボンにTシャ ツを着、パジャマの上着は背に引っ掛け、使い古したサンダル履きの姿で独立宮殿を後に した。 その時の思い出をスカルノの長男グントゥル・スカルノプトラはずっと後になってコンパ ス紙記者に述懐した。そのときバンドン工大の学生だったグントゥルは、大学の講義が終 わってから自分の車でジャカルタに走った。独立宮殿に置いてあった自分の私物を取りに 行ったのだ。絵画やその他の国家資産を持ち出してはいけないと父親はかれに念を押して いた。あまり時間がなかったから、かれは書籍や衣服、そして趣味にしていた手品道具で 車をいっぱいにし、他の物はあきらめた。 それを終えると深夜になった。かれは独立宮殿裏庭のベランダにひとりで座り、国家宮殿 まで続いている広い芝生の庭を眺めながら感慨にふけった。そして長い間世話してくれた 宮殿官房職員たちに別れを告げ、深夜零時を回った独立宮殿を後にしてクバヨランバルに 向かった。メガワティ、ラッマワティ、スッマワティ、グルの弟妹達がすでに移っている スリウィジャヤ通りの母の私邸に。独立宮殿からのスカルノの追放は、スカルノの一家に とって他の5つの大統領宮殿との訣別にもなった。[ 続く ]