「インドネシア大統領パレス(6)」(2024年10月03日) 第2代大統領スハルトは独立宮殿と国家宮殿を国の公式催事の場所として使うだけで、執 務は宮殿敷地内の別の建物で行い、居住場所も中央ジャカルタ市メンテン地区チュンダナ 通りにある自分の私邸に住み続けた。 大統領執務オフィスとしてスハルトは1969年に国家宮殿の東側にビナグラハを建てさ せた。この建物には防弾ガラスが使われ、また屋上にヘリパッドが設けられている。かれ の執務室にはティン夫人が好んだ木彫りの付いている重厚なデスクが置かれ、閣僚会議も ビナグラハで開かれるのが普通だった。 かれは独立宮殿の中をスカルノが使っていたままの形で放置し、ひとつの例外を除いてま ったく変更しなかったと言われている。独立宮殿で何かの公式行事が行われ、大統領が書 類に署名しなければならない状況になったときでもスカルノの執務室に入って署名したの はいいが、かれ自身はスカルノの執務机に着席しようとせず来客用の椅子に座り、その前 に置かれているテーブルで署名した。 しかし毎年独立記念日の前日にカリバタ英雄墓地を訪れた後、かれはその夜独立宮殿のフ ァッマワティの寝室だった部屋に泊まって翌日の記念式典に備えるようにした。スカルノ 大統領執務室に隣接するファッマワティ夫人の寝室は二つに分けられ、そのひとつにバス ルームが備えられて、スハルトはその部屋を毎年一度だけ使ったのである。 1980年にスハルトは全国6つの大統領宮殿を一般公開した。市民が誰でも訪問して中 を見ることができるようにしたのだ。とはいっても、好き勝手に中を徘徊することなど許 されるはずもなく、宮殿プロトコル担当官に付き添われて見学路をまわるような形になる。 しかしワヒッ大統領の一家が独立宮殿に住むようになったとき、独立宮殿の一般公開は廃 止された。ユドヨノ大統領は全国の大統領宮殿を市民に見せる「民衆のための宮殿」と銘 打ったツアープログラムを企画して国民に週末の見学を勧めた。見学を希望する国民は宮 殿見学のグループツアーを申し込まなければならない。だがジョコウィ大統領はそのプロ グラムを継続しなかった。 1997年になってスカルノの寝室を模様替えすることになり、スハルトの承認を得て用 途の変更が行われた。その部屋は毎年催される独立宣言記念日の式典で使われる複製の紅 白旗と宣言文の保管室に変えられたのである。保管室の模様替えでは、右の壁にファッマ ワティ夫人が紅白旗を縫っている姿を描いたレリーフ、左側はサユティ・ムリッが独立宣 言文の原稿をタイプアップしている姿のレリーフで飾られた。 ハビビ第3代大統領もパトラクニガン住宅地区の自邸に住んだが、執務は独立宮殿のスカ ルノの執務室を使った。ビナグラハは閣僚会議や特定の用件のために使った。スカルノの 執務室も模様替えがなされ、デスクの上にコンピュータが置かれた。ハビビは独立宮殿を 重要視し、イスラム風の雰囲気を持たせるように努めた。イスラムが大多数国民の宗教で あるというのがその理由だった。 ハビビはたいてい午前10時に独立宮殿に登庁し、時には深夜まで終日宮殿から外へ出な いこともあった。土曜日は新聞記者たちの取材に応じる日になっていて、記者たちが独立 宮殿を訪れた。政府が記者発表を行うときは国家宮殿が使われた。 来客との面会には国家宮殿と独立宮殿の両方が使われたが、時にはその中間に位置してい るプリバクティレナタマの一室を使うこともあった。そこへ行くほうが近かったからだ。 かれは昼食をジャカルタ大統領宮殿地区内にあるあちこちの建物の食堂で食べることを好 んだ。とは言うものの、愛妻の手弁当を持参することも少なくなかったそうだ。ハビビと 愛妻アイヌン夫人の物語は映画化されている。[ 続く ]