「インドネシア大統領パレス(9)」(2024年10月08日) 1.国家宮殿 Istana Negara ジャカルタ中心部に位置するムルデカ広場の北側の区画にこの国家宮殿と次の項の独立宮 殿がある。それらの宮殿はオランダ東インド総督が使う建物だった。しかし建てられた時 期は大きく異なっている。 ムルデカ広場の北の区画とは現在のヴェテラン通り、マジャパヒッ通り、北メダンムルデ カ通り、ヴェテランI通りに囲まれた区画であり、ヴェテランIII通りがその区画のほぼ中 央を東西に分断している。その分断された西側の、面積6.8Haの区画がインドネシアの 国家元首の住居と執務オフィスのあるジャカルタ大統領宮殿地区になっている。東側半分 もさまざまな上級国家機関の役所が集まっているエリアだ。 独立宮殿が19世紀最後の四半世紀ごろに建てられたのと違って、国家宮殿は18世紀末 から19世紀初頭に作られた。しかも総督のために建てられたものでもなかった。179 6年に、そのころレイスヴェイクと呼ばれていたその場所にオランダ人実業家のJA ファ ン ブラアムが邸宅の建設を開始して、1804年に完成した。ファン ブラアムはソロの レシデンを務めた行政高官だった。 ファン ブラアムがそこに邸宅を建てたとき、西隣のレイスヴェイク要塞跡地には何があ ったのだろうか?1777年から1780年まで第31代総督を務めたレイニア・ドゥ クレルクが社交場建設を唱えていたので、ファン ブラアムの邸宅建設はそんな将来の栄 誉を見込んだものだった可能性は小さくないように思われる。ファン ブラアムがそこを 別荘として建てたという記事が多く見られるのだが、その解釈は時代錯誤ではないかとい う気がわたしにはする。 Rijswijkという地名はオランダ人が古くから使っていたようで、1656年にその土地に 建てられた要塞がレイスヴェイク要塞と呼ばれた。この要塞は1697年に廃棄されて空 き家になり、1729年に取り壊された。そしてその跡地にハルモニ社交場が設けられた のだが、ハルモニ社交場は1810年にダンデルス総督が建設を命じ、1814年にラフ ルズ総督がオープニング式典を挙行した。 ラフルズは最初、ファン ブラアムの邸宅の東隣にあるピーテル・テンシーの建てた屋敷 を購入して住んだ。後にホテルネーデルランデンが建つ地所だ。そのレイスヴェイク地区 および運河をはさんで北側にあるノルドヴェイク地区を名実ともにバタヴィアの中心にし ようとラフルズは考えて実行したという話がある。 名実ともにという意味は、バタヴィアに置かれた、ヨーロッパ人が支配する東インドの統 治権力のセンターということだけでなく、ヨーロッパ人の必要とする買い物・宿泊・慰安 や娯楽などのすべてが揃っているヨーロッパ人のためのセンターということなのだ。言う までもなく、ヨーロピアンクオリティがその地区に求められる。 そのために原住民の住居・華人の店舗・公共墓地などがその地区から移転させられている。 ラフルズの意向は実現され、オランダ時代を通してそのエリアはバタヴィアのトップエリ ート地区になり、日本軍がバタヴィアにやって来るまで変化しなかった。 イギリスがオランダ東インドを新生オランダ王国に返還した結果イギリス統治時代が終わ りを告げてオランダ人総督がジャワ島に復活したとき、ファン ブラアムの邸宅は総督専 用のレイスヴェイクホテルに変身した。オランダ人はそこをホテルと呼んだし、またレイ スヴェイク宮殿とも呼んでいた。[ 続く ]