「インドネシア大統領パレス(10)」(2024年10月09日) オランダ東インド政庁がブラアムの邸宅を総督専用宿舎にした年を1816年と書いてい るイ_ア語記事が目に付くのだが、1816年は第42代総督ファン デル カペレンがバ タビアにやってきてイギリスから行政統治の引継ぎを受けた年だ。レイスヴェイクホテル についてのクロノロジーは、1820年にまず賃貸が行われ、翌1821年に東インド政 庁が買い取ったという内容になっている。 ファン デル カペレンは最初、レイスヴェイクのファン ブラアム私邸の東隣にあるラフ ルズの邸宅に住んだ。しかし何か不都合があったのかもしれない。政庁が総督のためにフ ァン ブラアムの邸宅を借りることで話をつけ、最終的に政庁が1821年にそこを買い 取った、と書かれている記事もネット内を探せば見つかるのである。そういう詳細情報を 探そうとしなかった人間が、ファン デル カペレンがバタヴィアにやってきたときに宿舎 が必要だったはずだと考え、最終結論と到着年をそのまま結びつけた可能性が推測される。 このようにして史的事実が闇の中に押し込まれていく元凶になっているインターネットと いうものは人類の知性に対するたいへんな脅威を秘めている、実に恐ろしい発明品ではな いかとわたしは最近ひとりで慄いている。テレビの登場で騒がれた時よりもっと、人類の 知性は深刻で凄まじい危機に瀕しているのではあるまいか。 ブラアムの邸宅が総督専用ホテルとされたのなら、総督はどこで執務したのだろうか?バ タヴィアの中にそんな場所は見当たらない。それもそのはず、VOC時代の末期からダン デルス〜ラフルズに至る歴代総督はバイテンゾルフ宮殿を総督の居所兼執務オフィスにし ていた。しかし総督は毎週水曜日にバタヴィアで開かれる東インド参議会に出席しなけれ ばならず、バタヴィアに専用ホテルがあって当然の状況にはなっていたのだ。 古代ギリシア様式でファン ブラアムが建てたこの二階建ての宮殿は表が北側の道路と運 河に面していて、広大な地所の中で建物はわずかに3,375平米の面積を占めているだ けだった。地所全体はたいへん広いものであり、裏には豪華な庭園が作られて南側にある Buffelsveldまでつながっていた。ブッフェルスフェルドというのは今のモナス広場を指 しているが、モナス広場の周辺はまだまだ宅地化されておらず、もっとだだっ広い空き地 の印象を与えていたように思われる。 なにしろ、後になって裏の庭園に独立宮殿が建てられたのだから、庭園の広さがどれほど 広大だったかが想像できるだろう。レイスヴェイク宮殿が手狭になったため裏庭に新しい 建物を建設することになり、この新館は1873年に建設が開始され、1879年に表門 を南のコニングスプレインに向けてオープンした。その新館はコニングスプレイン宮殿と 呼ばれた。 ヴェルテフレーデンにバタヴィアのセンター機能が移されたダンデルス総督の時代に、ブ ッフェルスフェルドは東インド植民地軍の軍事演習場になっていた。なにしろ、ダンデル スはヴェルテフレーデンを軍事センターにしたのだから。イギリスのジャワ島侵攻に備え るためにはそうするのが当然であり、軍隊がブッフェルスフェルドとヴェルテフレーデン の間を整列行進し、演習の前後にもブッフェルスフェルドの中で整列行進をしていたにち がいあるまい。[ 続く ]