「インドネシア大統領パレス(11)」(2024年10月10日) 多分そんな風景が日常のものになっていたために、ブッフェルスフェルドはダンデルスの 時代にシャンドマルChamp de Marsとも呼ばれていたのだろう。そこは本当にただのだだ っ広い空間でしかなかったようで、大砲を使う砲撃訓練すらそこで行われた。後にラフル ズがその広場にコニングスプレインという名前を与え、プリブミはそんなことにお構いな くガンビル広場と呼んだ。 1848年に総督専用住居であるレイスヴェイク宮殿のニ階が崩れかかったために改装工 事が行われて二階が取り除かれ、現在のような一階建ての姿に変わった。裏の庭園に出る テラスも後に大きく拡張されてレセプションパーティなどができる規模に作り変えられ、 表玄関も拡張されて公館としての印象を強めるものになった。今現在われわれが見ている 国家宮殿の姿がそのときできあがったのである。 レイスヴェイク宮殿とコニングスプレイン宮殿がヨーロッパ文明の最高峰を具現するもの になることで統治者であるオランダ人の威厳が原住民に示されるのだというコンセプトの もとに、オランダ人はヨーロッパから運ばれてきた大理石やレンガを建築資材に使った。 東インドで取れる資材では沽券にかかわるということだったのだろう。レンガはオランダ から東インドに向かう船にバラストとして積まれていたものが使われ、大理石はイタリア で切り出されたもの、建物の補強兼装飾に使われた鉄の鋳物もヨーロッパで作られたもの が使われた。 バタヴィアの総督宿舎を世話する者がなくてならないのは当然で、レイスヴェイク宮殿の すぐ脇に建物がいくつか建てられて総督官房がそこに入った。表の通りから総督官房の建 物に直接入る路地が必要になり、作られた路地にガンセクレタリーという名前が付けられ た。 バタヴィアは洪水の街であり、オランダ人は何百年にもわたって洪水対策に骨を折って来 た。バタヴィアの街を通さずにチリウン川の水を海に流すためにオランダ人は大型の運河 を掘り、それをBanjir Kanaalと名付けた。洪水を入れて流す運河という意味で作られた 地名だが、オランダ語とインドネシア語は語順が違っている。しかし地名として固有名詞 にされたから、インドネシア人もBanjir Kanalという逆の語順で使うようになった。 歴史的に見るなら、サンスクリット語源の地名も逆の語順になっているから、インドネシ ア人にはそれほどたいへんなことではないのかもしれない。それでもその地名を「運河の 洪水」と解釈するインドネシア人がいて、だからそんなものを作ってもジャカルタには洪 水が絶えないのだ、と語るひとがちらほらいる。そのおかげで現代マスコミの中にKanal Banjirと語順をひっくり返して使う編集者も現れ、その運河の名前は事情を知らないひと が見るとぐぢゃぐぢゃな様相を呈している。 バンジルカナル構想はバタヴィアの街の東と西に大きい水路を掘り、バタヴィアに流れ込 んでくる大量の水を海に振り向けるアイデアになっていて、西側の運河が1919年に作 られた。しかし東側はオランダ時代に完成せず、2003年になってインドネシア政府が 工事を開始し、2009年に東バンジルカナルはやっと海に達した。 レイスヴェイクの総督宮殿地区を包むヴェルテフレーデンのバタヴィア中心エリアを洪水 の害から守るために、チリウン水系のあちこちに水門が設けられて雨季の水流の調整が行 われた。その中でもマンガライに設けられた水門が重要な役割を占めた。マンガライの水 門が完成したのは1918年だ。[ 続く ]