「インドネシア大統領パレス(13)」(2024年10月14日)

2.独立宮殿 Istana Merdeka
1873年に、当時コニングスプレインと呼ばれていた今のムルデカ広場に面して新たな
宮殿が建てられた。上で述べたレイスヴェイク宮殿が北側の通りと運河に面しているのと
違って、このコニングスプレイン宮殿は南面していた。

レイスヴェイク宮殿が手狭になったため裏庭に新しい建物が建設されることになり、ジェ
イムス・ラウドン第57代総督時代にこの新館は1873年に建設が開始され、ファン 
ランスベルへ第58代総督の1879年に表門をコニングスプレインに向けてオープンし
た。最初は園遊会や舞踏会のための場所という用途がメインを占めたようだ。

総面積2千4百平米のこの宮殿はさまざまな名称で呼ばれてきた。オランダ国王代理者宮
殿・オランダ東インド総督宮殿・ヴェルテフレーデン宮殿・コニングスプレイン宮殿・フ
ァン モーク宮殿・サイコーシキカン宮殿・ガンビル宮殿、そして最後にムルデカ宮殿。


この建物を使ったのは植民地時代に15人の総督、日本軍政期に3人の最高指揮官、そし
て共和国独立後のスカルノ大統領と続くのだが、そこをフルタイムの居所および執務オフ
ィスとして使ったのは日本軍ジャワ最高指揮官とスカルノ大統領、アブドゥラッマン・ワ
ヒッ第4代大統領、そしてスシロ・バンバン・ユドヨノ第6代大統領だけだった。

記事によっては、15人の総督はだれもそこに住まなかったと書いているものがあり、そ
のうちの4人がそこに住んだと述べているものもある。各記事の筆者が使った「住む」と
いう言葉の定義次第でこのふたつの異なる情報が両方正しくなることは起こり得るように
わたしには思えるのである。ひとつは正しくてもうひとつは筆者の勘違い、というように
単純に割り切って済むものではないかもしれない。

実際、たとえばジョコ・ウィドド大統領はボゴール宮殿に住んだと言われているものの、
最初はジャカルタの大統領宮殿敷地内のウィスマヌガラに住んで独立宮殿で執務していた。
後になってボゴール宮殿に居所を移したが、独立宮殿での執務を続けた。「ジョコ・ウィ
ドド大統領はボゴール宮殿に住んで独立宮殿に通った」という言葉だけとらえればジャカ
ルタの大統領宮殿敷地内に住まなかったという意味に解釈できるわけで、論じられている
内容あるいは文脈次第でそれは正しくもなり、また不正確な論にもなり得るのではないだ
ろうか。


1949年12月27日に行われたオランダからインドネシア連邦共和国への主権移譲は
この宮殿が舞台になった。ヨグヤカルタスルタンのハムンクブウォノ9世がインドネシア
側を代表し、オランダ代表は第73代総督AHJローフィンクが署名した。

この主権移譲式典はアムステルダムとジャカルタで同時に行われることになり、時差のた
めにジャカルタでは夕方16時、アムステルダムでは午前10時に行われた。アムステル
ダムでの式典にはユリアナ女王とモハマッ・ハッタ首相が調印したという記事があり、ま
た女王は登場しないでオランダ政府首相がサインしたという記事もある。

コニングスプレイン宮殿の国旗掲揚柱からオランダ国歌ヴィルヘルムスの演奏と共に三色
旗が降ろされ、続いてインドネシアラヤの演奏で紅白旗がポールに上った。宮殿の外から
フェンス越しにこの劇的瞬間を見るために集まって来たジャカルタ市民たちからどよめき
が起こり、ムルデカを叫ぶ声と共にインドネシアラヤを歌う声がだんだんと大きくなって
いった。ひとびとは歓喜の涙を流し、声をかぎりにムルデカ、ヒドゥップインドネシア、
と叫んだ。

1945年8月17日に宣言した独立インドネシアが、長かった闘争の果てについに現実
のものになったのである。ジャカルタでの式典はラジオで全国津々浦々まで実況放送され、
インドネシアラヤの伴奏で紅白旗がポールを上り始めるとラジオを聞いていた聴衆もムル
デカを叫び、インドネシアの夕空が国民の雄叫びで埋められた。そして1950年の8月
17日にジャカルタで初めての独立宣言記念式典が独立宮殿で催されたのである。[ 続く ]