「インドネシア大統領パレス(14)」(2024年10月15日) 独立宮殿で主権移譲式典が催されたときスカルノはヨグヤカルタにいた。その翌日の12 月28日、スカルノはオランダが承認したインドネシア連邦共和国の大統領に、その時は アムステルダムにいて不在のハッタが副大統領に任命されたあと、スカルノの一家は飛行 機でジャカルタに向かった。 クマヨラン空港に到着した一家は国軍に迎えられて自動車でガンビル宮殿にやってきた。 その道中から宮殿に到着するまで、沿道では数千人の民衆がスカルノを迎えて喜悦を満々 と示し、ムルデカを叫ぶ歓呼の声が絶え間なくジャカルタの空にこだました。 スカルノはガンビル宮殿に到着すると表テラスの最上段に立ち、集まっている民衆を前に してスピーチを行った。「今日、わたしはジャカルタの土を踏んだ。ほとんど4年間もわ たしは皆さんに会わなかった。」そしてガンビル宮殿の名称を今からムルデカ宮殿と呼ぶ と群集に告げて拍手喝采を浴びた。同時にレイスヴェイク宮殿には国家宮殿の名前が付け られた。国家宮殿はウィスマヌガラが建てられるまで国賓の宿舎用に使われた。 独立宮殿の中にはじめてスカルノが入ったとき、内部はまるでインドネシアの縮図のよう になっている、とかれがコメントした。オランダ人がそこを使っていたときに宮殿内にあ ったあらゆる物が、スカルノが入ったときにはもう姿を消していたのだ。オランダ人はそ の建物をがらんどうにしてインドネシア人に引き渡したのである。インドネシアにある金 目の物はすべてオランダ人に持ち去られたのだ。 家具調度品・装飾品・絨毯から足ふきマットに至るまで、価値ある物は持ち去り、値打ち のない物は捨てられ、あるいは使えないように壊された。電灯・蝶番・扉の鍵は破壊され ていたのだ。宮殿表のベランダも無残なありさまになっていた。スカルノはまず、ジャカ ルタとボゴールの宮殿を新生インドネシア共和国の国家宮殿にふさわしいものに充実させ る仕事に取り掛かった。 1950年にジャカルタで初めて第5回独立宣言記念式典が催されたとき、スカルノは午 前8時36分に大統領演説を行った。独立宮殿前庭には来客用の椅子が用意されていたに もかかわらず、民衆は前庭を埋め尽くし、大勢が立ったまま大統領演説を聞いた。スカル ノは独立宮殿表ベランダの階段の一番上に立ってスピーチした。 その日催された式典は、インドネシア領土の一部を再植民地化したオランダとの闘争期間 中にジョクジャで行われた過去4回の式典と異なり、植民地主義をくつがえして独立を完 成させ、世界に認められるインドネシア共和国となってはじめてのものだった。その歓び に満ち溢れた式典が今こそ祝えるのだとすべての国民が感じていた。忌まわしい戦争はも う終わったのだ。 独立宮殿前庭は一般開放され、民衆が続々と入ってきていっぱいになった。入れないひと びとは宮殿前の道路を埋め、さらにもっと向こうのムルデカ広場まで広がった。その日を 体験したジャカルタ住民のひとりはこう書いた。 わたしは宮殿表テラスの東側円柱台座まで群集と共に近寄った。ブンカルノがすぐそこで 演説しているのだ。スピーチが終わるとみんながブンカルノと握手した。わたしも手を伸 ばしたが、届かなかった。それでも、自分がブンカルノのすぐそばで演説を聞き、かれと いう人間を身近に感じたことがわたしに特別の感慨を与えてくれた。われわれの大統領を すぐそばで見たのだ。 「独立とは福祉・繁栄・安寧に包まれたインドネシアに向かう黄金橋なのだ。」と大統領 はスピーチした。かれの燃え上がるようなスピーチに民衆は奮い立った。かれが語る一文 一文に拍手が湧き、イェールが飛んだ。「ヒドゥップブンカルノ!」「ヒドゥップインド ネシア!」「ムルデカ!」 スハルト大統領はスカルノのそのようなやり方を踏襲せず、独立宣言記念日の国家演説を 国会総会の場に移している。かれが「大統領宮殿は国民のものである」という建前を実行 に移したのも政権を握ってからだいぶ後の時期だった。[ 続く ]